言語は社會的な取決め事であるとされる事もありますが、そのやうな取決めは現實に存在しません。
人間は、事物を概念として把握する際、單語に置換へて認識を行ひます(抽象化)。この認識が繰返された結果、個人の精神の中には認識の體系が成立します。この認識の體系は、語彙の體系であると言へます。
語彙の體系は、個人個人によつて獨自に作り上げられてゐるものです。それは、個人の域を超えて、社會的に共通化されてゐるとは必ずしも言へないものです。もちろん、或程度共通の認識は社會的に存在し、その爲個人の語彙體系を基にした意志の疎通は行はれてゐます。
しかし、實際に「話が通じない」「話が誤つて傳はる」と云つた事は屡々ある事です。AがAの語彙aで表現した事を、BはBの語彙a'で解釋します。aとa'とは、重なり合ふ部分もありますし、それがあるから或程度、妥當な解釋が行はれ得るのですが、細部まで完全に一致する(a=a')と云ふ事はあり得ません。或個人の語彙は、他の個人の語彙と、必ずしも一致しません。
一方、語彙は單なる事物の概念的な把握に過ぎないとも言へます。事物をただ記號的に名前に置換へたに過ぎない、と云ふ事です。木の映像と、木と云ふ語とは、記號的に結び附いてゐる、と屡々説明されます。そして、その記號的な側面を、所謂「言語學」では重視して來たのですが、それは所詮、記號學としての言語學に過ぎず、言語を總體として對象とする學問とは言へません。言語の記號的な側面だけを取出して言語の本質と看做すのは間違つてゐます。
我々は、單語だけで思考を形成しません。我々は、語と語とを結合し、文章を作つて、飛躍的に思考を形成します。さうして形成された思考の表現の形態が、現實に存在する言語となつてゐる、と言へます。となると、現實の言語のあり方を考察するには、記號としての言語ではなく、表現としての言語を對象にする必要がある、と云ふ事になります。
語と語とを結合する際、我々は一定の規則に基いてそれを行ひます。その規則を、我々は文法と呼んで良いと思ひます。ところでこの文法なるものは、個人の獨自の體系の域を超えて、語彙の體系に比べれば比較的に社會的に共通のものである、と言つて良いと思ひます。
恐らくは、論理の普遍性が、思考を生成する文法に一般性を與へてゐる、と筆者(野嵜)は考へるのですが、そこまで言つて良いものか何うかは判斷出來ません。チョムスキーの理論が示唆的であるやうには思ふのですが。當座の議論で、この邊りの事は必ずしも考察が必要だとも思はれないので、推論を中止します。