「書き言葉は表音的であるべきだ」と云ふ意見があります。
現在、日本人の大半は、このイデオロギーを信奉してゐます。「べき」と云ふ語のあるを見れば、この意見がイデオロギーである事、少くとも單なる事實を述べたのではない事は誰の目にも明かですが、にもかかはらず、多くの人が、このイデオロギーのイデオロギーである事に氣附いてゐません。
イデオロギーの時代は終つたと言はれてゐますが、案外、しぶとくイデオロギーは生延びてゐます。政治と云ふ「特殊」な世界では、イデオロギーによる支配はあまり見られなくなりました。しかし、常識の領域にイデオロギーは巣喰ひ、無意識のうちに人の言動を支配するやうになつてゐます。人は、知らず知らずのうちに、特定のイデオロギーに基いて、事實を裁斷するやうになつてゐます。その典型的な例が、この「書き言葉は表音的であるべきだ」と云ふ思想です。
事實を直視すると、「書き言葉は表音的なものである」と言ふ事はできません。事實を直視するならば、「書き言葉には、書き言葉の規則・體系が存在する」と云ふ事を、我々は認めざるを得ません。