制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-01-08
改訂
2005-06-26

「言語エリート」への憎惡を止めよ

1

恐らく、讀者の大半は、「書き言葉」と「話し言葉」は別物ではない、と思つてゐるのではないでせうか。「書き言葉」は所詮「話し言葉」の影に過ぎない──さう云ふ「言語學的な常識」を、多くの人が持つてゐる事でせう。言語は本來「話し言葉」である、とは、「ソシュール主義」の言語學説でも言はれてゐる事です。

たしかに、文字を持たない言語は多數、存在します。それは事實です。それゆゑ、「話し言葉」が言語の本質である、と云ふ言語學説は、強い説得力を持ちます。そして、多くの「理論家」が、この考へ方を進めて、「『書き言葉』は自然ではない」「『書き言葉』は一部の人により獨占されてゐる」と主張します。

「『言語エリート』が獨占してゐた『書き言葉』を表音化して、一般大衆に解放せよ」と云ふ、昔懐かしいマルクス主義的な言ひ方に、多くの日本人は納得します。

だが、どこかに「理論」の落とし穴はないでせうか。もちろん、あります。

2

言語の出發點に「話し言葉」がある──たしかにそれは事實です。「話し言葉」があつて「書き言葉」がある──それはさうです。しかし、だからといつて、「書き言葉」よりも「話し言葉」の方が偉い、と云ふ事はないでせう。

のれん分けでできた分家よりも、常に本家の方が立派であるとは限りません。

「話し言葉」が言語の本來の姿であつたとしても、それで言語の機能を全て果せる譯ではありません。現實に、「話し言葉」に足りないものがあつたから、「書き言葉」が生じたのです。「話し言葉」に足りないものとは──保存性です。

本來の話で言へば、「話し言葉」と「書き言葉」は、持つてゐる使命が違ふのです。どつちが一方的に偉い、と云ふ譯ではありません。單に、役割が異るだけです。

3

マルクシズムに代表されるイデオロギーの世界では、對立する二者があつて、常に鬪爭してゐます。イデオロギーでは、ある一方の立場のものが、他の立場のものを打倒し、「獨占」する事で、その目的が達成されます。この發想の淵源には、善玉と惡玉を作つて、自分は善玉に與したがると云ふ正義の觀念と、惡玉に自分は虐げられてゐるから復讐したいと云ふルサンチマンの觀念があります。

正義の觀念とルサンチマンの觀念は、人間の逃れられない性である譯ですが、いづれにせよ、相對的の世界に屬するものです。絶對的な善惡の基準──God──を持つクリスチャンは、さう云ふ相對的の世界に、一種の免疫があります。しかし、我々日本人は、相對的の世界しか知りません。「書き言葉」を「惡者」と見做し、「善」なる存在である「話し言葉」に屈伏せしめようとする日本人の常識が根強いものであるゆゑんです。

しかし、「書き言葉」と「話し言葉」とは、目的が異るがゆゑに生れた兄弟であり、對立するものでもなければ、一方が他方を屈伏せしめなければならないものでもありません。

結論を申しますと、「書き言葉」には「書き言葉」獨自の規則があり、「話し言葉」には「話し言葉」獨自の規則があります。そして、兩者は、密接な關係を持ちますが、同時に、一定の距離を保つてゐないと、どちらもその本來の目的を達成する事ができません。

4

殊に日本語に於ては、「書き言葉」が極めて重要な意味を持ちます。日本人は、日本語を話してきたとされますが、早い時點から支那の影響を受け、多くの語彙は支那から採入れてゐます。

しかし、支那の言語の音韻と、日本語の音韻とは、違ひがありました。日本語の音韻は、支那の言語の音韻に比べて單純でした。その爲、支那から受容れた語――漢語は、日本語の音韻による表記では同音異義語が澤山、出來る結果となりました。

その一方、概念語を生成する原理に乏しい日本語は、漢語によつて概念語を補はざるを得ませんでした。そして、一定の文化、或は文明を成立させ、維持する上で、複雜な概念を表現する事は絶對に必要な事です。結果として、同音異義語を多數含む問題はあれど、漢語を日本人は使ひ續けねばなりませんでしたし、今後も使ひ續けなければならないでせう。

「話し言葉」で同音異義語が多數ある事はたしかに厄介な問題です。もちろん、日本語の音韻を増やせば、その問題は解決します。また、同音異義語となる場合は、どれか一つを採つて他の全ての語を捨てる、と云ふ方法で解決は理論上、可能です。或は、そもそも漢語を使はない、と云ふ解決方法も考へる事だけは出來ます。しかし、いづれも現實的ではありません。

ただ、幸か不幸か、漢字は字形から意味を想起させる機能が強く、比較的、覺え易い、と云ふ特徴がありました。

だから、日本人は、同音異義語が多數あつても、漢字で書かれてゐる事を前提に、一々の語を區別して覺える事が出來ましたし、漢語をベースとした概念的・抽象的な思考を行ふ事も出來ました。そして、近代になつて、西歐文明を受容れるにも、西歐の概念を漢語で飜譯する、と云ふ方法を使ふ事が出來ました。

日本人が複雜な思考をする際には、音聲言語に基いた思考だけでなく、漢字を利用したイメージ的な思考が必ず行はれます。日本語に於ては、「話し言葉」が即座に「書き言葉」を聯想させる機會が極めて多くあります。

ですから、殊に日本語の言語活動に於ては、「書き言葉」がとても大きな役割を果してゐると言へます。日本語の特殊事情として、「話し言葉」と同程度かそれ以上に「書き言葉」の意義と内容とを重視して考へる必要があります。

もちろん、漢語が日本語に不足する概念語を補ふものであり、概念語を操るのが主に「エリート層」である事は否定出來ません。しかし、だからと言つて、概念語を憎惡し、概念語を表す漢語を憎惡するのは間違つてゐます。

寧ろ、比較的――或は、かなり――高度な内容の概念を、漢語を媒介にする事で、「エリート層」のみならず一般の人間が或程度、理解出來る、と云ふメリットを重視すべきです。英語では、ラテン語ベースの概念語は、一般人には全く理解出來ない事があります。