制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-02-14
改訂
2005-06-26

「現代仮名遣い」は「戰後の傳統」か

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「現代仮名遣い」は戰後の半世紀と云ふ「長い」期間、繼續して用ゐられたきた表記である、と云ふ見方があります。これは唯一の「正しい見方」であると言つて良いものなのでせうか。どうも、さう信じてゐる人が結構多いやうです。

「現代仮名遣い」は戰後の「僅か」半世紀の間にしか通用してゐない表記である、と見る事も可能です。

皮相的な相對化であるかも知れませんが、「現代仮名遣い」が「定着」してゐると主張する人々は、さう云ふ皮相な形で相對化される事を期待して、殆ど故意に「穴」のあるものの見方をしてゐるのですから、相對化される前の見解がそもそも意味を持ちません。

端的に言ふならば、半世紀と云ふ期間が「長い」か「短い」かの泥沼の議論に持込めれば、「現代かなづかい」派は良いのです。相對的の世界に話を持込めれば、「歴史的假名遣が正しい」と云ふ主張は相對的な正義になつてしまふ譯で、相對的に「現代かなづかい」も「正しい」と云ふ結論がすぐに出てしまひます。

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量の話をするから、相對的な話になるのであります。問題は「質」であります。

「現代仮名遣い」が半世紀の「長い」間、全く變化せずに使ひ續けられてゐるのは、「現代かなづかい」が「生きた」日本語でない證據である、と言はれれば、「半世紀は長い期間だ」と見る人は否定出來ない筈です。

そもそも、時代に應じて改訂され續けていくべき「現代仮名遣い」を、「傳統」と見る事自體が矛盾です。「現代仮名遣い」は、その本質が「現代仮名遣い」を支持する事を否定してゐます。

「表記は時代に應じて變化すべきである」と云ふ、傳統を否定する思想が「現代仮名遣い」の背後にあります。「現代仮名遣い」と云ふ、或固定された一種の表記を支持する事は、「現代仮名遣い」の「精神」に反する事です。もちろん、「現代仮名遣い」の支持者は、さう云ふ「現代仮名遣い」の「精神」を支持しません。

「現代仮名遣い」は、支持された瞬間に、支持されない事になつてしまふのです。

3

實際のところ、假名遣は單に書き言葉の原理として用ゐられる筈のものであり、歴史的假名遣で現代の日本語を記述する事は可能ですから、歴史的假名遣を書き言葉の標準とする事は現代の日本語の「傳統」を否定するものであるとは言へません。

歴史的假名遣は現代の日本語を否定するものでない、と云ふ事は、「言葉 言葉 言葉」が證明してゐるのですが、事實よりも概念の方を大事にする人も多いやうで、屡々「言葉 言葉 言葉」は「古代の日本語」で書かれてゐる等と評されます。

假名遣自體に創作性は認められないと云ふのが著作權法の解釋ですから、「現代仮名遣い」で書かれてゐる文章が歴史的假名遣で表記されたとしても、その本質は基本的に變化しません。

にもかかはらず、「現代仮名遣い」を「戰後の傳統的な日本語」と言つて、支持して見せる人は、少くありません。もつとも、さう云ふ言ひ方をする人の目的は、屡々「傳統主義者」をやり込める事でしかなかつたりします。

「傳統」と云ふ用語も、未定義の状態ならば幾らでも意味を擴張して使へます。「戰後の傳統」と云ふ言ひ方は、殆どレトリックです。

「戰後の傳統」といふ用語で以つて「傳統主義者」をやり込めようとする人は、「戰後の傳統」と云ふ言ひ方を非難されると、當然の如く「傳統」の定義を要求して泥沼の議論を惹起します。要は、曖昧な言ひ方をすればどんな事でも言へる、と云ふだけの話です。

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常識的に判斷すれば──と言つても、現代は常識が崩潰してゐるから、實に困つた時代です。常識が存在しない場合、互ひに信ずるところは當然のやうに喰違ひ、自己の意圖は相手にとつて曲解すべき概念となります。

自己の持つ概念と、相手の持つ概念が一致してゐれば、大體の場合、一方の意圖は間違はずに他方へと傳はります。その共通の概念が常識と言ふべきものである筈ですが、どう云ふ譯か昨今、この常識は忌避されるやうになりました。その結果として、意思の疎通が全く出來ないやうな事態が頻繁に生ずるのですが、日本人は困つた事を精神力で克服する民族なので、さつぱり事態は改善されません。閑話休題。

傳統と言つたら、或前後を區切られた期間に一般的である事ではなく、時代を越えた概念であります。

「現代仮名遣い」は本來、戰後直後の、或短期間の用をなす爲に定められた假の基準でした。「当用漢字」は正直に「当用」と言つてゐた爲、困つた文部省によつて「常用漢字」と云ふ名前に變へられてしまひましたが、「現代仮名遣い」は「現代にしか通用しない」と云ふ意味が「或時期以降の現代ならばいつでも通用する」と云ふ意味にずらされて、そのまま名前が生殘つてゐます。

しかし、名前はともかく、多くの「現代仮名遣い」支持者が「生きた言葉」をスローガンにしてゐるのを見れば、「現代仮名遣い」が本質的に或一時期に生きる日本人の爲の基準でしかないのは明かです。

「現代の日本語を記述する際の基準として適用可能であり、同時に、過去の日本語の表記を解析する際の基準としても通用する」と云ふ事が「歴史的假名遣は傳統的な存在である」と云ふ事であります。「現代仮名遣い」に、歴史的假名遣ほどの汎用性はありません。

「現代仮名遣い」は、「現代」と云ふ狹い範圍の中で確かに一般的ですが、歴史的假名遣の時代を越えた汎用性にはかなひません。さう云ふ意味で、「現代仮名遣い」が「戰後の傳統」であるにしても、所詮その程度の代物でしかない、と言ふ事が出來ます。

もつとも、「現代に於て通じればそれで良い」と云ふ刹那主義的な觀點からすれば、「傳統」なんぞ糞喰らへ、と云ふ事になるでせう。話は刹那主義の是非がテーマとなりますけれども、「傳統主義者」に刹那主義を認める事など決して出來ません。

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と言ふか、二千年近い日本の歴史を總體として認めるのならば、戰後の五十年は「僅か五十年」と見るのがより正確な見方である、と言つて良いでせう。この「戰後の五十年」を「傳統」と看做して「保守」しなければならない等と考へてゐる西部邁のやうな「保守派」も、ゐる事はゐます。さう云ふ「保守派」が「眞の保守派」か何うかは敢て議論しません。

けれども、敗戰までの日本人の歴史を擁護しながら、敗戰までの日本人の歴史的な表記を否定するのは、明かに矛盾です。さう云ふ矛盾を「現實主義」の名の下に肯定してしまふのは、結局「風潮に流されてゐる」だけなのではないですか。「大衆に迎合してゐる」とも言つて良いでせう。