制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2002-01-08

コミュニケーション

言語において重要なのは、コミュニケーションと云ふ概念です。

表現者から受容者に、ある思想・心情・感情が、言語規範に基いたリニアな表現(言語表現)によつて傳達される──これが言語によるコミュニケーションの、極めて粗雜な描寫です。

從來の言語學(時枝誠記の用語では「言語機能説」)でも、表現者、受容者は重要な存在です。しかし、「言語機能説」では、個別の状況下における言語の機能のみが、觀察對象となります。

その結果として、言語のよりよい研究に都合の良い状況が選ばれる事になります。

屡々「言語の研究に都合の良い状況の下にある言語」が「良い言語」とされます。これは、「(「良い研究」の意味での)良い言語の研究」と「良い言語」とがごつちやにされてゐる譯で、根本的な部分で誤を冒してゐるのですが、言語自體が目的と化してゐる爲、研究者自身、なかなか誤に氣附けません。

また、個々の状況で觀察される言語は、互ひに全く聯關を持ちません。「言語機能説」では言語そのものの意義を全く理解出來ない、と、「言語過程説」は批判します。

「言語過程説」において、言語表現自體は、飽くまで言語の過程に存在する要素の一つであり、表現者と受容者と言つた要素の存在を常に意識してゐる必要があります。そして、表現者・受容者も、單なるスタティックな存在としてではなく、思考し、思考を表現しようと努力し、表現を理解しようと努力する心の動きを持つ、ダイナミックな存在として意識します。

「言語機能説」では、言語規範は偶然に決定されたもので、必然性はない、と言つて、輕視します(實際には輕視されるべきでもないのだが、日本の多くの言語研究者が輕視して見せる)。

しかし、コミュニケーションの過程で重要な働きをする言語規範と云ふ取決め・プロトコルの存在を、「言語過程説」は無視できません。表現者の持つてゐる言語規範の概念と、受容者の持つてゐる言語規範の概念とに喰違ひがあると、兩者の間にコミュニケーションは成立ちません。

さらに、「言語過程説」では、表現者と受容者を、特定の言語研究に都合の良い場面の存在に限定しません。

現實には、同時代人同士の對話のみに言語が用ゐられる譯ではありません。過去の表現者の遺した文書を、後世の受容者が讀む、と云ふ事態も、當然、言語學の觀察對象として、認めます。もちろん、ある表現者の發表した文書を、同時代の受容者が讀むと云ふ事態も、觀察對象です。そして、「言語過程説」は、過去の表現者と後世の受容者の間に存在する言語規範と、同時代の表現者と受容者の間に存在する言語規範とに、全く同じ價値を認めます。

そして、この兩者の言語規範が共通であるならば、必然的に、同時代人に限らず、時間を超えたコミュニケーションを成立させられる、と推測します。

時間を超えたコミュニケーション──それは「書き言葉」の目的とするものである、と、「言語過程説」の立場からは言へます。「話し言葉」を言語の本質と定義する「言語機能説」には、時間の概念が、すつぽり拔け落ちてゐる、と言ふ事すらできさうです。もちろん、さう云ふ觀察對象の人爲的な選別自體が研究方法として誤つてゐる、と云ふだけの事なのですが。