制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-09-08
改訂
2006-08-20

音便について

定義

廣義には、發音の便宜の爲に、語中・語尾の音節で子音や母音が脱落する現象を指して言ふ。「イ音便」「ウ音便」「撥音便」「促音便」の四種がある。

用言の活用形で屡々見られる現象で、「書きて」が「書いて」、「向ひて」が「向かうて/向つて」となる。

嚴密に言へば、「笑はない」が「ワラワナイ」に發音が變化したり、「川ぞひ」の「ひ」が「い」と同音に發音されるやうになつたりして、は行の假名の讀みが一齋にわ行に變化した事も「音便現象」である。かうした場合、歴史的假名遣では、は行の文字は「は行とわ行との二系列の發音表記に用ゐられる假名文字である」とされて、表記の上で保存される。語中・語尾におけるは行の音の變化は、一齊の變化であり、法則的であつて例外が無い。その爲、かうした事例に就いては敢て「音便」と呼ばないのが普通である。

「書いて」「向かうて/向つて」のやうに、表記に變更を來すやうな事例のみを、現在では一般に音便と呼んでゐる。

歴史的假名遣における音便

「川ぞひ」は、歴史的な「音便現象」によつて「かわぞい」と讀まれるが、「川ぞ」ではなく「川ぞ」と表記する。理由は上に述べた通りで、「語中・語尾のは行は保存する」爲である。

一方、「川にそつて」は、「川にそひて」から生じた言ひ方だが、音便として「川にそつて」と表記する。

これで江湖山氏の提出した二問に答へたことにならないでせうか。第一問は、「いる」(入)と「ゐる」(居)、「おもい」(重)と「おもひ」(思)これらの語にある同音〔i〕を三樣に書きわけるのに、「柿」「垣」「牡蠣」の三語を一樣に「かき」と書いてすませるのは矛盾ではないかといふことでした。どうして矛盾でせうか。それらはさういふ語だから、さう書いてゐるのです。前者を書き分ける態度と後者を書き分けぬ態度とは一つものです。それが矛盾だといふのは、表音文字は專ら音に隨ふべしといふ考へ方か、あるいは異る語は音も異るべしといふ考へ方か、いづれかにかたよつたものでせう。しかし、歴史的かなづかひは同音異義語を認めます。それが既に存在し、私たちに與へられてゐる以上、仕方のないことです。もちろん、それをなるべく避けることは望ましい。が、それはかなづかひの問題ではなく、語の選擇の問題です。一方、「いる」「ゐる」「おもい」「おもひ」の場合も、語義の差を識別しようとして書き分けたのではなく、既に存在し、私たちに與へられてゐるものを踏襲したら、その結果として一貫性と明確性とが得られることを知つたので、それを、いはば徳としてゐるだけのことです。語義の識別は結果であつて目的ではありません。

まづい點は、發音と違ふといふことですが、音は文字にとつて第二義的なものです。發音と違ふといふことも、この程度のずれなら、それを犧牲にしても、一貫性、明確性に賭けたはうがいいでせう。常識的にも、さう考へるのが自然でせう。しかし、江湖山氏の第二問、「川ぞひ」の「ひ」を「い」にすることを嫌ふほど語の一貫性、明確性を重んじるなら、「川にそつて」も「川にそひて」と書けと言はれると、同じ常識が首をかしげる。〔fi〕あるいは〔hi〕が、子音の〔f〕〔h〕を失つて〔i〕となるのと、さらにその〔i〕があとの子音〔t〕に牽制されて無發音の〔t〕になるのと、どちらが自然か。音聲學的にはどちらも自然でせう。自然だから起つた變化でせう。しかし、母音と子音とを書き分けられぬ音節文字において、「ひ」を〔i〕と讀ませるのに較べて、「ひ」を〔t〕と讀ませるはうが無理であることは明らかではないか。ここまで變化した以上、一貫性、明確性の利用だけですませてはゐられない。第二義的とはいへ、表音文字の厄介になつてゐるからには、その表音性も利用せねばならぬ。さう考へるのが常識といふものでせう。

あらゆる音便表記はさうして起つたものであります。が、ここにおいても、歴史的かなづかひは決して語に隨ふといふ原則を捨ててはをりません。「つ」で表す「促音便」の場合には分明ではありませんが、たとへば「う音便」の場合にはそれがはつきり現れてをります。「机にむかひて」は口語では「机にむかうて(むかつて)」となりますが、この揚合、歴史的かなづかひは、あくまで「むかうて」であつて「むこうて」とはしない。そこまでは音に義理だてせず、「う」だけを妥協しておいて、その代り「か」を維持し、ふたたび歴史的一貫性と同時に、「むかふ」といふ語の明確性を呼び寄せようとするのです。「ありがたくぞんじます」が「ありがたう」となつても「ありがとう」とはしないのです。しかも、それを音便と稱し、あくまで便法として位置づけてをります。つまり文字が固定的な語に仕へるといふ原則を忘れず、音の變化に隨ふのは方便だといふわけです。

もちろん、嚴密に言へば、「川ぞひ」の「ひ」を「い」と同音に發音するのもひとしく音便現象であり、かつてはそれも音便と呼ばれたことがありますが、今では表記に變更をきたす場合のみをさう呼んでをります。「は行」語中語尾音の轉化といふ現象は全く法則的であつて例外がなく、あへて表記を變へてまで際だてる必要がありませんし、またもし表記を變へてしまつたなら、元の形を知る手がかりを失つてしまひませう。それに反して「そつて」「むかつて」などの音便現象は流動的、非法則的であつて、本來の「そひて」「むかひて」の表記にその轉化音を含めるのはいちわう無理と考へられるのみならず、たとへ「ひ」を「つ」と變へて表記しても、助詞の「て」なしの「そひ」「むかひ」といふ語法も併存してをりますから、それがあくまで臨機の處置にすぎぬことが明らかに認められます。音便はさういふ場合にのみ許される表記の變更と考へるべきです。

參考文獻

「國語假名遣ひ改訂私案」
時枝誠記
『私の國語教室』
福田恆存