「支那から漢字が傳來する以前、日本には既に文字が存在した」と云ふ説が古くから存在してゐる。現在の國語學では、「漢字以前に、日本人は固有の文字を持たず、使つてもゐなかつた」とされてをり、それが定説である。
屡々、神道家が「日本には固有の文字がある」と云ふ説を提唱したり、支持したりしてゐる。
鎌倉時代、卜部兼方は日本書紀の注釋書である『釋日本紀』において、「龜卜(占ひ)の辭を記す事が神代の頃からあつた」と云ふ説を述べた。
『釋日本紀』は、文永十一年(1274)から正安三年(1301)までの間に撰述された。
兼方の『釋日本紀』はそれ自體、學術的に貴重な書物で、價値が無い好い加減なものである訣ではない。
ただ、筆者である兼方の屬する卜部氏が、神道思想鼓吹の爲に神代文字の存在を主張したとして、非難される事がある。
忌部正通は貞治六(1367)年、『日本書紀神代口訣』で、神代文字の存在を主張した。忌部は同書で、神代文字は象形文字であると論斷した。
江戸時代以降、神道思想の興隆とともに、「神代文字」の存在も盛んに喧傳されるやうになる。
寶暦十三(1763)年、諦忍は『伊呂波問辯』を著し、神代文字の存在を述べた。
佐藤信淵、平田篤胤、鶴峯戊申、落合直澄らもまた、神代文字の存在を主張した。彼等の示した字母表は、「日文」「天名地鎮」等と呼ばれてゐる。
平田篤胤は『神字日文傳』で、やはり「日文」と云ふ字母表を示した。これは、五つの母音と十の子音を表はす單音文字の組合せを示したものである。
現在、この「日文」は僞作であると考へられてゐる。と云ふのは、それが1443年に李氏朝鮮4代世宗の命により作られ、1446年に制定されたハングル(訓民正音)と酷似してゐるからである。「神代文字」の實在を信ずる人は、ハングルが神代文字を參考に作られたものであると反論する。しかし、1000年以上のブランクを挾んで神代文字が朝鮮で復活した、とは考へにくい。そもそも、ハングルはパスパ文字などを參考に作られたものである。
落合直澄は、『日本古代文字考』で、12の存在説を蒐集してゐる。それで示されてゐる字母の排列は、僞書である『先代舊事本義』に載せられた神話の順に依つたもので、信ずるに足らない、とされてゐる。
貝原益軒、太宰春臺、賀茂眞淵、本居宣長、伴信友らは、「神代文字」の存在を疑ふ立場をとつた。
新井白石、榊原芳野らは肯定・否定の明確な判斷を示してゐない。白石が「神代文字」に肯定的であつたとする文獻をたまに見かけるが、さうではない。
現在の國語學に於ては、「神代文字」の存在は否定されてゐる。理由は以下の通り。
蓋シ聞ク、上古ノ世イマダ文字アラズ、貴賤老少口々ニ相傳ヘ、前言往行存シテ忘レズ
完成度の高い文字が存在してゐたのならば、その時點で日本の古代社會には高度な文明が存在してゐた事になる。その「高度な文明」を有してゐた日本が、なぜ支那から漢字を移入したり、文物を輸入したりしなければならなかつたのか、或は、表音文字である「神代文字」があつたのに、なぜ改めて平假名・片假名が作られなければならなかつたのか──さう云つた事が「神代文字があつた」と云ふ前提では、説明が困難である。
杉本つとむは『日本を知る小辞典2ことばと表現』(現代教養文庫)「文字と表記」で、以下のやうに述べてゐる。
漢字の渡来以前に、<神代文字>と称する日本独特の文字の存在を主張する説があるが、信用できない。それらのいう文字とは、ほとんどが江戸時代に作られたもので、とうてい神代のむかしに存在したなどと考えることはできない。もし日本に固有の文字があったとしたら、歴史が示すように、どうして苦心して中国の文字を受け入れ、その使用に工夫をこらしただろうか。まして<かな>など作る必要はなかったであろう。
「神代文字」が47〜50字の字母表を示してきた事は、上代特殊假名遣で多數の音節に甲乙二類の別が發見されてゐる事實に反するとして、「神代文字」の存在を否定する根據とされて來た。上代特殊假名遣の示唆する八母音の區別が消失し、現在のやうな五つの母音になるのは九世紀半ば頃と考へられてをり、それ以前の文字ならば神代文字には甲乙の區別がなければならない。
神代文字を信ずる人々は、松本克己教授(金澤大學)「母音の交代現象」や森重敏教授(奈良女子大學)「連接による臨時合成音」等を引き、「上代特殊假名遣は、音韻ではなく音聲を寫したものであり、外來的な書記法の作り出した虚像であり、漢字傳來によつて一時的に生じた過渡的な表記に過ぎない。日本語の母音は、八であつた事などなく、ずつと五であつた」と主張して、「神代文字」の再檢討を要求する。彼等は、「八母音説」では平安期に八母音が死滅してゐた事の説明が不十分である、説得力に缺ける、等と言つて、「五母音」の「神代文字」の實在する可能性を示唆する。だが、これらの「神代文字肯定派」の主張は、可能性の示唆に過ぎない。
上代特殊假名遣を檢討すると、アルタイ語系諸語に見られる母音調和の痕跡が見られる、と云ふ事を、有坂秀世が述べてゐる。これは、古代の日本語に八母音が存在した事の傍證となり得る。逆に、「五母音」説は、「八母音がなくても説明出來る」「八母音があつたと云ふ説には幾つかの疑義がある」と主張してゐるに過ぎず、八母音が使はれてゐた事を決定的に否定するものではない。
字母表を示して神代文字が提唱されるやうになつたのは、漸く江戸時代になつてからである。それより前の時代の「神代文字」の説では、字母表が提示されてゐない。
提示されてゐる字母表は、どれも五十音圖に基いてゐる。五十音圖の最古の例は十一世紀初めの頃に書寫された京都・醍醐寺の『孔雀經音義』に附けられたものである。「神代文字」はそれ以前に存在した、と言ふのだから、年代的に合はない話である。
「神代文字」が「あつた」とする文獻は、戰後續々と「發見」されてゐる。しかし、は行で表記すべき四段動詞をあ行・わ行に跨る「現代仮名遣」式の活用で記載するなど、基本的な誤が見られる。いづれも後世の捏造である可能性が極めて高い。ただ、どの文獻も、餘りにも怪しい爲、學問的な批判が十分行はれてをらず、そこに「神代文字は實在した」と主張する人々が希望を託する理由がある。
取敢ず、今のところは、「徹底的に存在の隱匿された文字」と云ふものを考へるよりは、「そんなものはなかつた」と考へる方が、より常識的な判斷だと言へる。
言囘しも一部、拜借した。
その他、ウェブ上の文獻を幾つか參照した。