制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-06-12
改訂
2006-11-30

用語について

Q
なんで旧かなにこだわるの?
A
私の支持してゐるのは、正しい假名遣──正かなづかひです。「旧かな」ではありません。
また、「拘らなくても良いものに拘る」なんて事も、してゐません。「間違つたもの」に「執着する」事はあり得ますが、「正しいもの」には「執着する」なんて事があり得ません。「正しいもの」は「正しいもの」なのだから受容れるのが當然であり、それを受容れない態度こそ頑迷であると言へます。
Q
歴史的仮名遣を、なんで旧かなと言わないの?
A
「新かな」「旧かな」と云ふ言ひ方は、相對的な言ひ方に過ぎません。戰後、國字改革が行はれ、「現代かなづかい」が内閣告示で告示されました。以來、世間では、その「現代仮名遣」を「新しい仮名遣い」と看做し、歴史的假名遣を相對的に「古い仮名遣い」と看做して「旧かなづかい」と呼んでゐます。しかし、その「新しい仮名遣い」も、半世紀以上經過して、十分「古い」假名遣になつてゐます。「新しい」「古い」といつた觀點で見ても意味がない事でせう。
それに、「古い仮名遣い」だなんて、如何にも「要らないもの」みたいで、嫌です。
Q
歴史的仮名遣を、なんで「正かな」なんて言うの?
A
「現代仮名遣」は明かに「不正な仮名遣い」であり、相對的に歴史的假名遣は「正しい假名遣」であると認識してゐるからです。
半世紀經つても、「不正な仮名遣い」は不正なまゝであり、「正しい假名遣」は正しいまゝです。正不正の觀點は意味があると思ひます。
もちろん、現在と云ふ時點を重要な基準として判斷するならば、「社會的」に歴史的假名遣は「一般的」でありません。そして、或時代において「社會的に一般的である」事を「正しい」と稱するものであるならば、歴史的假名遣は「正かな」とは言へないでせう。その點で「新かな」「旧かな」と云ふ言ひ方が社會的には使はれてゐます。
けれども、論理的・體系的である事を「正しい」と言ふのならば、歴史的假名遣は「正しい假名遣」だと言へます。歴史的假名遣には規則があり原理があります。整然とした體系があります。その點で、相對的に「現代仮名遣」よりも「正しい」と言へます。
Q
「正しい仮名遣い」の「正しい」は、どういう意味で使われているのでしょうか。
A
「正統の」即ち「歴史的に正しい系統の」の意です。
「正しい」の概念は、相對的なものである事に注意して下さい。「現代仮名遣」に比べれば歴史的假名遣の方が正しい、と云ふ意味で「正假名遣」と言つて良いのではないですか。歴史的假名遣は、「現代仮名遣」よりも、文法體系として整つてゐるものであり、論理的に説明し易いものです。
Q
なぜあなただけの「正しい」を押附けるの?
A
私が假に「明日から正かなを使へ。これは命令だ。問答無用」と言ひ、實際にあなたの物の書き方を支配してしまつたら、それは私があなたに「私の意思」「私の好み」を押附けた事になります。そして、その時の「書き方」が、恣意的で、何の規則性もなく、出鱈目に決定されたものである場合、私は「私だけの正しい」をあなたに押附けた事になります。
しかし、私は「なぜ正しいと言へるのか」を説明してゐます。私は「正しい」と言へる理由を説明してゐます。私は「私の好み」を説明し、押附けてゐるのではありません。個人的の域を越えた、一般性・普遍性のある「正しさ」の説明をしてゐます。正かなづかひにはきちんとした規則があり、原理があります。その規則・原理を私は説明してゐます。普遍的で一般性のある規則・原理を持つたものを「さう云ふものがある」と言つて示し、それを撰擇するやうに奨める事は、何か問題があるのでせうか。「そんな事は許されない」と言ふのならば、あなたは「全ての學問的業績は否定し得る」と言つてゐるも同然の事をしてゐます。
或は、説明それ自體を「押附け」と極附けて非難するとしたら、それは如何なものかと思はれます。私は思ふのですが、他人を納得させようとせず、個人的な嗜好に基いたやり方を默つて押通さうとする態度、それこそ「押附け」ではないですか。
「俺は納得させられたくないんだ、間違つてゐようとも、俺は俺だけの『正しい』を守りたいんだ」――さう言ふ人もゐるかも知れません。しかし、さう云ふ「惡い意味で保守的」な態度をとるのも、如何なものかと思はれます。實際、日本の保守派にはさう云ふ態度を取る人がゐるのですが、「自分にとつて都合の良い事」「自分にとつて安樂な事」を「保守」するのが「眞の保守主義」であると私は思ひません。私は「自分以外の存在を尊重する」と云ふ事があつてもよろしいと思ひます。G.K.チェスタトンに據れば、「御先祖樣にも權利を與へる」のが本當の民主主義だらうとの事です。餘りに「自分逹の時代」なるものを絶對視しないやう努めたいものです。我々は謙虚であるべきだと思ひます。
Q
いまさらどうして「國語」なんて言うの? 今は「日本語」というものじゃないか?
A
語が指示する對象と、指示する語との間には、記號的な關係しかないですよね。「我々日本人が用ゐてゐる言語X」を指示する語として、「國語」を用ゐても「日本語」を用ゐても、どちらでも構はないのではないですか。「日本語」と「言はなければならない」と云ふ言語學的に必然的な理由はありません。ならば、昔から言ふ「國語」なる言ひ方をしても、別に問題はない訣です。
ただ、正字正かな派は、言葉に關しては「保守的な態度」をとるべきであると考へてゐます(それが大前提となつて、假名遣でも保守的な態度をとるべきだと云ふ發想に繋がつてゐる)。だから「國語」なる「昔からの言ひ方」を守つてゐる訣です。
ただ、用語に關しては、假名遣よりもプライオリティが低くなるので、時と場合によつては妥協した言ひ方もします。もちろん、正當な理由が「ある」場合には「日本語」なる言ひ方を普通に「する」事もあります。意味もなく「國語」なる言ひ方に「拘つてゐる」ものではありません。