制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-06-12
改訂
2005-11-28

表記と發音の關係について

發音と表記との關係

Q
文字は発音を紙の上に書表すためのものだから、歴史的仮名遣は正しくない。
A
文字は語を書表すものです。發音は、文字に據つて書かれた語に據つて想起されます。それが書き言葉と云ふものです。
意味−發音の關係は、必然的な關係ではありません。同じやうに、發音と表記との間にも必然的な關係があるとは言へません。意味−發音−表記の關係は、互ひに記號的に指示し合ふものであり、どれかがどれかに從屬するといつたものではありません。
發音を書表す爲のものを發音記號と言ひます。發音記號と文字とは別のものです。
Q
そもそも昔の仮名遣いってのは発音をあらわしていたんでしょ? 同じ発音なのに違う仮名をあてるのは、論理的な根拠に乏しいよね。あなたの「正かな」の主張は、はっきり言って、歴史的仮名遣いを考案した人たちの合理的な考え方と矛盾してると思うよ。
A
歴史的假名遣は、成立した當初から、「發音を表す爲の規則」ではありませんでした。それは「表記の規則」でした。
書き言葉は、「文字に據つて語を記録するもの」であり、當初はたまたま表音的に語を記録してゐたに過ぎません。しかし、記録の際に表音的な表記を用ゐてゐた當時であつても、それは「語を記録する」と云ふ意識の下に行はれてゐたのであり、「發音を記録する」と云ふ意識はありませんでした。「發音を記録した」のは、單に「語を記録する」手段であつたに過ぎません。
慥かに、發音と表記との間にずれのなかった時代の表記に假名遣はありません。しかし、全ての書き言葉は、記録された瞬間から、發音と乖離し始めます。假名遣の出現は必然であつたと言へます。
假名遣は、發音と表記がずれたから發生しました。その「ずれ」が意識され、問題化された時、「書き言葉」は「話し言葉」から獨立しました。假名遣は「書き言葉獨自のルール」として定められました。
現代の「正かなづかひの主張」は、「話し言葉と書き言葉を峻別する」と云ふものです。書き言葉は「話し言葉の發音を寫す物」ではなく、「書き言葉獨自の規則に基いて語を記述する物」です。我々は、書かれた文字列を、語單位で認識し、記號的に發音や意味を想起します。これは、過去の歴史的な事實とも、「歴史的假名遣を考案した人々」の發想とも、合致します。
意味論において、言語に於て最も重要な要素は音聲ではなく語である、と指摘されてゐます。歴史的假名遣・正假名遣の表語主義は言語學的に合理的であると言へます。表音主義は、音韻論等を學んだ人が陷り勝ちな誤ですが、「語よりも音聲を重視する」と云ふ事實に即さない態度の主張であり、非合理的です。
Q
「表音仮名遣」ならば、音と表記が一対一対応になる。歴史的仮名遣は音と表記が一対多対応だ。
A
個人の發音は十人十色です。音と表記は一對一對應になりません。
屡々、「音韻」と表記とを對應させたものが「現代仮名遣」である、と説明されます。恐らく質問者はその意味で言つてゐるのでせう。ただ、音韻と表記が對應する事に意味があるのでせうか。
「現代仮名遣」でも、「は」「へ」「を」で音韻と表記が一對一對應になつてゐません。音韻と表記とを對應させなければならないと言ふのであれば、正かなづかひを否定する前に「現代仮名遣」を否定してゐなければなりません。
表記と發音とが完全に一對一に對應する「表音仮名遣」では、發音が表記を拘束する許りでなく、逆に表記が發音を拘束する事にもなります。その結果として、個人の音韻意識は「表音仮名遣」によつて拘束され、方言を含む個人の音韻意識の差異は全て否定されてしまひます。表記に或程度の自由が認められない限り、「發音の自由」は制限されるのです。相對的に表記と發音が獨立してゐる「正かなづかひ」が表記の標準として用ゐられる場合、音聲言語は表記に拘束される事なく、音聲言語として獨自かつ自然に發展する事が可能となります。
また、確かに、正かなづかひに於て、音韻と表記は一對一の對應になりません。けれども、正かなづかひでは、體系全體として、表記と發音の間に一定の規則が存在します。正かなづかひと發音との關係は、例へばフランス語に於る綴りと發音との關係と同じやうなものです。正かな表記の語を何う讀むかは、中學校の古典の授業で、最初の頃に習つてゐる筈です。そこに曖昧さはありません。

傾向とか自然とか

Q
国語は表音的になっていくものではないか?
A
趨勢として「さうなつて行く」と言ふのならば、事實ですから受容れます。しかし、日本では国語改革・国字改革が實施されました。私は国語改革・国字改革を受容れられません。「現代仮名遣」と云ふ規則を制定し、それを上から押附けて、無理やり「趨勢を作り出す」――それは、言語の自然な變化でなく、人爲的な國語の改造です。「趨勢である」と認められません。
趨勢としての變化のみを認める立場を取るので、私は人爲的な國語改造=国語改革・国字改革に反對してゐます。
Q
国語は表音的になっていくべきものではないか?
A
音聲メディアを利用する話し言葉には話し言葉のルールが適用され、視覺メディアを利用する書き言葉には書き言葉のルールが適用されるのが自然です。ですから、書き言葉に話し言葉のルールを適用しようとするのは間違ひです。「表記は表音的にならなければならない」と云ふ必然的な理由はありません。
また、日本語に於ては、詞(體言・用言の語幹)と、辭(助詞・助動詞或は「てにをは」及び用言の活用語尾)との間に、機能上の大きな差異があります。慥かに、意味を指示する記號的な詞に於ては、表音化しても問題は比較的小さいやうです。けれども、詞の文章に於る機能を明示する辭に於ては、表音化すると寧ろ語意識が反撥する傾向があります。現に助詞の「は」「へ」「を」を「現代仮名遣」でも「は」「へ」「を」と非表音的に表記する事を原則としてゐます。
Q
表音的な表記の方がかきやすくはないか? しゃべる言葉をそのまま文字にうつせばいいんだから。
A
人によつて發音が異るのですから、喋る言葉をそのまま文字に寫すと、人によつて表記がまちまちになります。即ち徹底的な表音主義は不可能です。
だから「表音な表記」と云ふ主張になるのですが、「どこまで表音的にすべきか」と云ふ線を適切に引く事は現實に困難です。ここまでは表音的でここからは「表意的」、と云ふ線を個人個人が銘々に勝手に引いたら、再び表記は混亂します。さうなると、矢張り「規範」が必要となるでせう。正かなづかひと云ふ規範を否定しても、また新たな規範が要請されるのです。
表音主義では、ローマ字表記・カナモジ表記に方式が岐れ、更にそれぞれの中に複數の方式が存在してゐます。
その場その場でのメモ程度にならば、表音的に書く事は自由です。そんなところまで人の態度を束縛しなければならないと云ふ必然的な理由はありません。ただ、それは飽くまで便宜です。便宜的な書き方は、現實にはあり得ます。けれども、それを理想的な「正式の書き方」とすべきではない、と云ふだけの話です。現實に人が用ゐてしまふ書き方はそれとして認めつゝ、それとは別に理念である「正式の表記」としては歴史的假名遣を採用しておいた方がよろしからう、と。
なほ、国字改革以來、「かきやすい」と云ふスローガンの下、「当用漢字」「現代かなづかい」が實施された訣ですが、「かきやすい」「簡單」なのだから「滿點をとれて當然」と云ふ態度が教育界に瀰漫しました。教師が「教へた事」を兒童・生徒が「完全に理解する」事は大前提となりました。現在に至るまで、一點一畫まで完全に「教科書の字體通り」に書く事を要求する教師は存在します。が、そんな人間性無視の教育が「當り前」である、と云ふのは、恐ろしい事だと思ひます。「人間は誤を冒すもの」と云ふ發想が、表音主義には拔け落ちてゐるやうに感じられます。
Q
子供に文字を書かせると、表音的に書くものではないですか?
表音的な表記の方が自然なのではないですか?
A
そもそも子供は文字を書きませんし、言葉を喋りません。それが自然と云ふものです。言語は本質的に人爲的なものです。當然、全ての表記もまた人爲的なものであり、自然のものではありません。
さう考へると、人爲的なものである言語においては、人爲的である事が自然なのです。
實際のところ、「子供が言葉を喋る」のは「子供が語を喋る」事と同義です。「子供が物を書く」のは「子供が語を書く」のと同義である、と言へるでせう。子供も、物を書かせられた時、ただ「音を寫す」なんて意識は無く、「語を書く」積りで物を書くのではないですか。實際、親の立場からすれば、自分が發した音を意味も解らず寫す子供よりも、意味が解つた上で語を書く子供の姿にこそ安心出來るものではないですか。大事なのは「子供が語を語として認識し、理解して、書いてゐる」事です。語の意識が「ある」か何うかが問題です。書かれた文字列が「表音的」か何うかは只の見た目の問題に過ぎません。
Q
なんだかんだ言ったって、歴史的仮名遣が発音を正確にあらわしていないのは事実じゃないの?
A
表記は、記號的に意味と發音とを指示出來ればそれで良いものです。ただ、體系性を持つてゐなければ、記號は利用しづらいものです。何かを指示する時に、容易に記憶から引張り出すには、一貫した理論に從つて記號の體系が構築されてゐる必要があります。
發音に關して。フランス語の綴りからは、標準的な發音が容易に想起出來ます。それと同樣に、歴史的假名遣によつて書かれた文章からは、矢張り標準的な發音が容易に想起出來ます。フランス語の綴りが「發音を表はしてゐない」と言ふのが不當であるならば、同樣に、歴史的假名遣が「發音を表はしてゐない」と言ふのも不當であると言へます。
Q
我々は、「現代仮名遣」に馴れているのだから、わざわざ歴史的仮名遣にする必要がないのではないか?
A
「現代仮名遣」は、一貫した原則を持たず、全體として體系性を缺いてゐます。體系性が缺如してゐる事=無原則である事は、「現代仮名遣」を「利用し辛い」ものとしてゐます。
日本人は子供の頃から長期に亙り連續して「現代仮名遣」を使用してゐます。だから、慥かに「馴れ」があり、「現代仮名遣」を或程度不自由なく用ゐる事が出來ます。しかし、「現代仮名遣」の習得には、機械的な諳記が不可缺であり、「合理的な方法に據る學習は不可能である」と云ふ事が判つてゐます。
「後天的」に學習しなければならない諸外國の日本語研究者等にとつて、原則に基いた體系的・論理的な理解が不可能で、機械的な諳記と馴れが強要される「現代仮名遣」の存在は、學習に於て重大な障壁となつてゐる、とすら言ふ事が出來ると思ひます。
一方、既に述べた通り、歴史的假名遣・正かなづかひは、文法的に基いた一貫性のある規則が存在し、體系的な理解が可能となつてゐます。また、發音と綴りとの關係が存在する歐米諸語の使用者にとつては、表記の規則としての歴史的假名遣は、寧ろ「現代仮名遣」よりも納得のし易いものであると言ふ事が出來るでせう。
もちろん、日本人が日本に閉籠り、閉鎖的な環境で「現代仮名遣」を用ゐてゐる現状、必ずしも歐米の研究者の事を考慮する必要はないのかも知れません。けれども、「現代仮名遣」に「馴れてゐる」筈の日本人ですら、必ずしも正確に「現代仮名遣」の規則を遵守出來てゐる訣ではありません。試驗をしてみれば、相當多くの日本人が「現代仮名遣」を正確に使ひこなせない事が判るでせう。嚴密に「正確に使用できる事」を採用すべき假名遣の選出の基準とするのならば、「現代仮名遣」は歴史的假名遣と同樣、失格となる筈です。「現代仮名遣」も「難しい」と言へます。
日本語が「オープンな言語」となる爲には、「現代の日本人」の慣れを必須事項として要求する「現代仮名遣」は排除される事が望ましいと言へます。