制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-06-12
改訂
2006-09-03

個別の問題について

引用

Q
正字正かな主義者が現代仮名遣いの文献を引用する際、現代仮名遣を歴史的仮名遣いに改竄している事がある。それは許される事なのか。
A
引用時の表記の變更を「意味もなく改竄してゐる」と簡單に極附ける向きがあるやうですが、豫斷を持つのは如何なものでせうか。そもそも「改竄」と「言つて良い」か何うかは、檢討すべき事であると思ひます。
引用者の執筆方針に據つて、表記の變更には意味が「ある」場合があります。引用者がきちんと説明してゐる時にすら「改竄だ」と極附けて、非難する人もゐるのですが、「意味のある表記の變更」は、引用者の正當な權利であり、侵害されてはならない事です。「『現代仮名遣』に基づいた文章を正かなに直すのは、いついかなる場合にも許されないのだ」等と一概に主張するのは、法に對する挑戰とすら言へるのではないかと思はれます。
ローマ字主義者の人がローマ字で文章を書く時、「漢字假名交じり」の文獻をローマ字に改めて引用する事はあり得ますし、それは許される事です。ならば、正かな派の人間が正かなで文章を書く時、「現代仮名遣」の文獻を正かなに改めて引用する事もあり得ますし、許される事であると言つて良いでせう。實際、さう云ふ事例はあります。
法的に、引用時の「表記の變更」は、特定の條件の下で許されてゐます。その特定の條件に當嵌る場合、「表記の變更」を行つた引用は、正當な引用と認められます。正當な引用について「改竄」なる表現をするのは感心しません。それは引用者に對する中傷であり、場合によつては名譽毀損にすら當ると言ふ事が出來ます。

方言の再現性

Q
歴史的假名遣は、方言を正確に再現できるのか? より表音的な「現代かなづかい」の方が、方言を再現するのには都合がよくないか?
A
「現代かなづかい」が方言を否定する事で成立してゐる事實を、あなたは認識してゐるのですか? 「現代かなづかい」は「標準語」の發音に基いて定められてゐるのですよ。あなたは「現代かなづかい」を使用してゐる時點で既に「標準語」を認め、方言を否定してゐます。
實際のところ、古い言ひ方を保存してゐる方言と、古い表記を保存してゐる歴史的假名遣とは、屡々一致します。關西の方言「あふる」を正かなづかひが保存してゐる事實は福田恆存が指摘してゐます。
土佐方言では「水」を/midu/乃至/midzu/と發音するさうですが、標準語の音韻に基いた「現代仮名遣い」の定める表記「みず」は、この方言を否定してしまつてゐます。
正かなづかひは、書き言葉のルールである爲、話し言葉から獨立してゐます。正かなが方言を破壞する事はありません。一方、「現代かなづかい」は、書き言葉と話し言葉を一致させる爲、「標準語」の發音を押附けてしまひ、方言を破壞します。
參考:国語音韻の変遷

個別の語の規則

Q
「とほ(通)り【tohori】」なんてだれもいわないのだから「とおり」とかけばいいじゃないか? あるいは「とうり」でもいい。
A
例へば、「有爲」の「う」と、「言う」の「う」とで、同じやうに發音してゐるとは、必ずしも言切れません。どちらかと言ふと「言う」の「う」は、「有爲」の「う」に比べて、弱く發音されます。現代語音で「わ/い/う/え/お」と發音する(とされてゐる)語を正字正かなで「は/ひ/ふ/へ/ほ」と書くのは、現代に於ても根據のない事ではありません。
「通り」の場合、發音の觀點からは「とうり」とすべき理由が見當りません。誰も「と・う・り」等と言ふ事はないからです。「とおり」にしても矢張り「と・お・り」と言ふ事はありません。強ひて言へば「とーり」ですが、これは長音と呼ばれる物です。さう云ふ長音について「現代仮名遣」には規定があります。その規定に據れば、「お」の長音は「う」と表記する事になつてゐます。けれども、「通り」の「現代仮名遣」の表記は「とうり」ではありません。「通り」の場合は「とおり」と書く、と云ふ事が、例外として定められてゐます。その根據は、歴史的假名遣で「とほり」と「ほ」で表記してゐたから、です。さうなると、今でも或意味、歴史的假名遣は生きてゐる、としか言ひやうがありません。ならば歴史的假名遣をそのまま使つたらよろしからうと。
Q
「地面」を「ぢめん」とかけというが、「地」は漢字であり、「じ」という音なのではないですか? 「地面」は「じめん」と書いてよいのではないですか? 僕はそう思うよ?
A
それは「あなたが思つてゐるだけ」ではないですか? あなたの「正しい」を押附けないで下さい。
「現代仮名遣」で、「鼻血」は「はなぢ」と表記する事になつてゐます。「ち」が濁つて「ぢ」になつた、と云ふ理窟を、「血」では認めてゐるのです。それならば、「地」にも同じ理窟を認めるべきなのですが、なぜか「現代仮名遣」は認めてゐません。「現代仮名遣」には一貫性がありません。
Q
「十手」をなんで「じつて」と讀んで、「五十歩百歩」をなんで「ごじつぽひやつぽ」って読むの? 「じゅって」「ごじゅっぽひゃっぽ」でいいじゃない?
A
字音假名遣では「十」を「じふ」と表記します。促音便化した「十手」や「五十歩百歩」の表記は當然「じつ」になります。
「現代かなづかい」では「十」を「じゅう」と表記しなければなりません。しかし、「十手」や「五十歩百歩」は從來、「じって」「ごじっぽひゃっぽ」と發音してゐました。「現代かなづかい」は、論理を無視して、ただ規範の權威によつて、「じって」「ごじっぽひゃっぽ」と書け、と命じざるを得ません。
書き言葉のルールにのみ基づいてゐる歴史的假名遣は、一貫した體系となつてゐます。しかし、話し言葉のルールを書き言葉に持込んだ「現代かなづかい」は、體系として一貫したものにはなりません。その證據が「十」の「ねぢれ現象」に表れてゐると見るべきです。

或種の語句

Q
「支那人」と呼ぶのは、彼等が嫌がっているのだから、良くないのではないか。「中国人」と呼ぶべきでないか。
A
日本語で「中国」と言つたら「中国地方」の事です。Chinaを「中国」と呼ぶとしたら、日本の「中国地方」と紛らはしく、或は「中国地方」なる言ひ方そのものをも滅ぼし兼ねません。
そもそも「秦」からChinaや支那なる言ひ方が發生したのであり、言葉としてはそれ自體、何ら差別的な意圖は無いものであり、そこに何らかの感情が這入り込むとしたらそれは「歴史的に生成されたもの」であると言へます。が、それを理由に言葉を滅ぼすのは、決して妥當とは言へません。日本人が「支那人」と言つて「やつて來た事」――その「やつて來た事」が支那人を不快にさせ、「支那人」なる「日本人の言ひ方」に支那人が不快感を覺える「やうになつた」事は「事實」として「認める」事は出來ます。けれども、ただ單に「支那人」を「中国人」に言換へて、それで日本人が「やつて來た事」が帳消しとなる事はあり得ませんし、或はその行爲と全く同じ事が未だに無くなつてゐないとしたら、言葉の言換へによつてその行爲の存在が隠蔽される事にもなり兼ねません。
日本人が歴史的に支那人の惡感情を惹起して來た事は、言葉の言換へなる姑息なやり方で隠蔽されるべきでないと考へます。寧ろ、言葉に附いた惡い印象を拂拭するやうな日本人の態度そのものの改善こそが要請されるべきでせう。