制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-12-06
改訂
2008-06-18

書き言葉の規則・原理について

Q
「現代仮名遣」に問題が少なからず存在する事は認める。しかし、わざわざ歴史的仮名遣を復活させる必要はないと思う。今の「現代仮名遣」を基にして、それに伝統的な書き方の規則を追加して、補正していけば良いのではないか。
A
それは、「現代かなづかい」と「現代仮名遣」を既成事實として肯定する事になるので、認められません。
「現代かなづかい」は、表音主義に基いた表音的假名遣をベースに、助詞の「は」「へ」「を」を歴史的假名遣から採入れる、と言つた「補正」をされた上で、成立しました。その後、「現代かなづかい」は、「伝統的な書き方の規則を追加して補正」された「現代仮名遣」になりました。質問者は、さう云ふ「補正」の仕方は正しい、と主張してゐます。
國字改革の推進派は、その「補正」の存在を盾に取つて、「現代かなづかい」は「表音的假名遣ではない」と主張し、「現代かなづかい」の「正しさ」を主張して來ました。
しかし、如何なる理由があつても、表音主義を書き言葉の規則の原理とするのは容認出來ません。
Q
「現代仮名遣」は、表音主義と傳統主義に基いた二元主義である。理想と現實との間でバランスの取れた、理想主義者と現實主義者のどちらも妥協出來る優れた規則であると言えるのではないか。
A
表記に於ては表語主義が原則であるべきであり、例外として發音に從ふ事が稀にあると云ふやうにすべきです。
現實問題として、表音主義と表語主義のどちらもが全く同等に尊重される假名遣、なんてものはあり得ません。「現代仮名遣」においても、バランスはとれてゐないでせう――實際、表音主義の方が表語主義よりも優勢であるやうに思はれます。
と言ふよりも、現實の「現代仮名遣」では、表音主義が原則となつてをり、それで説明出來ないところで仕方なしに表語主義を持つて來て辻褄を合せようとしてゐる、と見る事が出來ます。けれども、その辻褄合せは、巧く行つてゐません。
Q
現に「現代仮名遣」は一般化しました。歴史的仮名遣いは歴史的にすたれる運命だったのではないですか。歴史的仮名遣いは「現代仮名遣」に発展的に解消されたのではないですか。詰り、「現代仮名遣」もまた「歴史的仮名遣い」なのではないですか。
A
「現代かなづかい」は、歴史的假名遣を否定する恰好で制定されましたし、歴史的假名遣とは原理が異ります。歴史的に兩者が連續してゐるとは言へません。だから「現代かなづかい」は歴史的假名遣ではありません。
「現代かなづかい」は、部分的に歴史的假名遣の規則を採入れてゐますが、それは「現代かなづかい」自體の抱へる矛盾を糊塗する爲、場當り的に導入したものに過ぎません。「現代かなづかい」は全く新しい原理――表音主義をベースに作られたものです。
Q
「現代仮名遣」を使っている人が大多数である現在、「現代仮名遣」の方が「正しい」のではないですか。「多数の人が使っていること」こそが表記の原理なのではないですか。
A
もちろん、そのやうな「正しい」の解釋をする事も可能です(「保守派」の人にもそのやうな發想の人がゐます)。けれどもそれは、例へば「今はミニスカートが流行だから、ミニスカートを履くのが正しい」と言ふやうなもので、一時の流行を支持する宣言をした以上の意味はありません。
明日になつたら變つてしまふやうなものは、時間を超えて一貫した原理とはなり得ません。
そもそも、「或種の原理があつて、それを人々が支持する」のが普通です。「人々が支持する」と云ふ事態が突然生ずるなんて事は考へられませんし、そんな「事態」が「原理である」なんて事もあり得ません。
Q
表語主義表語主義と言っているが、どうしてそんなものにこだわるの?
A
「書き言葉の原理として」と云ふ條件の下では表語主義が「正しい」から「正しい」と言つてゐるに過ぎません。「正しい」ものには、單に從ふだけの事であり、拘るなんて事はあり得ません。「正しい」ものに從ふのは、「正しい」と云ふ以外に理由は必要ありません。
書き言葉は、讀んで發音が判る爲にあるのではありません。讀んで意味が解る爲にあるものです。意味が解る爲には、語が認識出來なければなりません。書き言葉では、語が判る事が最優先事項となる訣です。それを表語主義と言つてゐます。
Q
書き言葉における表音主義のデメリットって? メリットだってあるんじゃないですか?
A
話し言葉でも、聞き手は、音を媒介にするだけで、結局は語を認識するものです。表音主義者は、その「語を認識する」と云ふ事の重要性を理解してをらず、「音さへ判れば意味も即座に解るものだ」と勘違ひしてしまつてゐます。音と意味とを混同してしまつてゐるのです。
書き言葉では、讀み手は文字を基に語を認識します。表語主義的な表記であれば、必ずしも音を解さずとも即座に意味を理解する事が出來ます。ところが、表音主義に從つた表記がなされてゐた場合、讀み手は、書き言葉であつても、文字を一旦音に「還元」し、話し言葉に變換してから、語を認識する事になります。表音主義は、「語の認識」と云ふ觀點からは、「迂遠な方法である」と言へます。
慥かに表音主義には「教育水準の低い人が表現するのに利用し易い」と云ふメリットがあります。しかし、現在の日本のやうに高水準の教育が普及してゐる環境では、表音的な表記はたどたどしいものにしか見えず、讀むのに手間がかかり、餘計な勞力が必要となる、不便なものとなつてしまひます。このやうに言ふと「弱者無視」「貴族主義」のやうな批判が來るかも知れませんが、「弱者」を生み出さないやうな社會を作る事こそ求められるのではないでせうか。即ち、子供が教育を受けられないやうな劣惡な環境を無くす事、それこそが必要な事であると言へるのではないでせうか。
Q
表音主義を否定するのならば、絶対に表音的な書き方をしてはいけないと言うのか?
A
假名遣は理想的なものであるべきです。しかし、理想と現實とは違ひます。歴史的假名遣は、表語主義に基いた「理想的な書き方」を示唆するものですが、その「理想的な書き方」は何時如何なる場合にも實現されなければならないと云ふものでもないでせう。
「正しく書けない」時には正しく書かなくても「解れば良い」――その邊は「良い加減」にしておくのが良いだらうと思ひます。「そんな好い加減な事では困る」と言はれるかも知れませんが、餘りにがちがちに規則を適用しようとするのは「惡き官僚主義」と云ふ奴で、よろしくないのではないですか。
理想と現實との妥協なんて事を「現代仮名遣」を擁護して國字改革の推進派が言つて來ました。それは「現實と理想とは完全に一致させなければいけない」と云ふ潔癖症的な完全主義に基いたものです。人間は完全な存在ではありません。何んな規則であつても完全に從ふ事は出來ません。「人が現實に何う書くか」を重視し過ぎて、表記の規則のレヴェルを引下げてしまつた國字改革は間違ひでした。實際、國字改革における精神である完璧主義は、戰後の教育界を支配し、過度の嚴密主義で以て子供に機械的な規則の諳記を強要して來ました。「新字新かなは易しい規則だ」と云ふ建前が、「易しい規則だから新字新かなは完全に使へなければならない」と云ふ發想に繋がりました。子供を漢字の書取りから解放する筈だつた國字改革が、却つて子供に漢字の書取りを強要する結果となつたのですが、かう云ふ理想と現實との乖離はあつてはならない事です。ソ聯の失敗にしてもさうでしたが、改革とか革命とかは屡々理念の名の下に現實の市民生活を壓迫するものです。それは反省されなければならないと思ひます。
理想的な假名遣がある一方で、現實には表音的な表記をするの構はない、とするのが、本當の意味で二元主義的な發想である、と言へるでせう。