制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-06-12
改訂
2011-06-17

表記の歴史性について

言葉の傳統

Q
言葉は変化するものだ。漢字も仮名遣いも変化するものだ。そうではないか?
A
「言葉は變化する」と云ふのが事實であるにしても、「だから言葉の書表し方も變化する」とは言へないのではないですか。
語彙は變化する現實があります。だからと言つて表記を變化させる必要があるとは思ひません。
Q
言葉は常に生きて流動し、変化しつづけるものだ。文法とか正書法とかいうものは、言葉の死んだ過去の姿しかとらえられないものでしかない。そんな硬直した、死んだ規範に、今生きている言葉を無理矢理押し込もうとするのは、無理がある。
A
「現代かなづかい」こそ、半世紀に亙つて全く變化してゐない、死んだ規範ではないですか。正かなづかひを非難する前に、あなたは既に「現代かなづかい」を否定してゐなければなりません。
慥かに、話し言葉は生きて變化します。しかし、話し言葉の目的と、書き言葉の目的とは、異ります。書き言葉は、生きて變化する話し言葉をそのまゝ寫す爲に存在するのではありません。その場で消滅する話し言葉と違つて、書き言葉は後世に言葉を傳へる爲に存在します。ですから、書き言葉は長期に亙つて利用可能である事が望ましいと言へます。すると「書き言葉は變化しないものである方が望ましい」と言へます。時間が經つても理解出來るものである爲に「書き言葉に於いては文法や正書法が固定してゐる方が良い」と言ふ事が出來ます。
それから、助詞の「は」「へ」「を」は、歴史的假名遣でも「現代仮名遣」でも變化してゐないものですが、だからと言つて「死んだ言葉」だと言つて良いのでせうか。寧ろ、「は」「へ」「を」のやうな非表音的な表記が殘つてゐる事實が、「言葉には變化しない方が良い場合がある」と云ふ事を雄辯に語つてゐるのではないでせうか。そして、正かなづかひの主張は、さう云ふ「變化しない方が良い言葉を守れ」と云ふ主張にほかなりません。「現代仮名遣」は、不必要に日本語を「變化」させてゐます――「現代仮名遣」は日本語の表記の「改變」或は「改惡」です。
Q
何も昔の文献がよめなくたって、いいじゃないか。歴史的仮名遣なんて俺はいらない。
A
日本人が日本の古典を讀んでは行けないのですか。あなたの個人的な趣味を押附けないで下さい。
Q
無理に歴史的仮名遣いを現代に復活させるのではなくて、その時代時代にあった合理的な正書法があっていい。だからわたしは歴史的仮名遣いに反対だ。
A
「現代仮名遣」は永遠に非合理的なものであり、何時の時代にも適應しない表記法でしかありません。あなたの理論では「現代仮名遣」を擁護する事は出來ません。
あなたの理論では、「その時代時代にあった合理的な正書法」を、時代毎に繰返し創作して行かなければなりません。ところが、それでは、或時代の文獻が、次の時代ではそのまゝでは利用出來ない、と云ふ事になつてしまひます。それは非效率的な話だと思ひます。
もちろん、「その時代時代にあった合理的な正書法」たるべく、「正書法に變化があつても當然である」とは言へます。けれども、變化として許されるのは枝葉末節の部分での改良に限られます。根本的な原理を變更してなりません。原理的・全面的な變化ではなく、運用上必要な細部の修正のみが許される、と云ふ事です。「現代仮名遣」では、從來の正書法である歴史的假名遣から、根本的に原理が變更されてゐます。ですから、「現代仮名遣」は、歴史的假名遣から變化した日本語の正統の正書法として、認められません。
自然な變化の場合、本質的な部分では變化しない事が重要です。本質は變化せず、保存される傾向があるのです。ですから、「正かなづかひとして殘して行くべき部分はどの部分であるか」を明確にし、「本質としての正かなづかひの原理」を示す事は、慥かに必要な事でせう。その點、「正かな派が啓蒙の努力を怠つてゐる」と云ふ指摘があるならば、それに強く反論する事は、慥かに出來ません。が、餘りにも表音主義による「洗腦」が強く行はれてしまつてゐて「正かな派に供給される人材が少い」と云ふ正かな派の辯明は、認められて良いでせう。教育が不公正なのです。
Q
歴史的仮名遣いだって非合理的だよ?
A
それは慥かにさう言へる面もあります。けれども、自然に存在するものなのだから、非合理的な部分が「ある」にしても、それはそれとして、事實として認めざるを得ませんし、それは「改善の餘地がある」と云ふだけの事です。一方、「現代かなづかい」「現代仮名遣い」は、さう云ふ「非合理的な歴史的假名遣」を否定して人工的に作られたものですから、非合理的である事が許されません。
歴史的假名遣の立場は、「『自然にある』ものは、それとして認める」と云ふものです。ですから、「不合理である」にしても、それは歴史的假名遣の性質に過ぎず、歴史的假名遣の瑕疵とは言へません。一方、さう云ふ自然的な表記の存在を「認められない」人逹が、「言葉の合理化」を主張して「現代仮名遣」を人工的に作りました。ならば、そこで作り出された「現代仮名遣」は合理的でなければならないのです。ところが現實に「現代仮名遣」は不合理である。
しかし、「非合理的」と言はれながらも、歴史的假名遣は自然に出來たにしては良く出来てゐます。「いや、自然ではない」と反論する人もゐるでせうが、「現實の表記を補正する」と云ふ形で歴史的假名遣は徐々に出來たものであり、いつぺんに作られたものだと言ふのは正しくないでせう。そして、さう云ふ「補正」のレヴェルでの修正ならば「あり」だと思ふのです。それを「現代かなづかい」では一氣に改革しようとした。ところがその「改革」は失敗だつた。
一言で表現すると國字改革推進派は「わざわざ不合理な表記を作つた」――それが問題なのです。
Q
本來の日本語表記はオール漢字ではないか。萬葉假名をみたまえ。
A
本來と言つたら、そもそも日本語に固有の表記なんて、ありません。「本來」と言つたら、「日本語は話し言葉に限定すべきだ」なんて話になり兼ねません。
「本來」の話として、單に古代の一時期の話を持出すのは、意味がないと言はざるを得ません。歴史の中の一時期に使はれた萬葉假名を、それだけ掬ひ上げて、殊更に「これが本來の日本語の表記だ」と極附けるべきではないでせう。我々は、古代から現代まで、國語と表記とが變化して來た歴史を全體として認識する必要があります。「漢字から假名を作つた」「假名の遣ひ方として假名遣を定めた」と云ふ「流れとしての歴史」を重視すべきです。
多くの「日本の文化」らしい文化は、平安時代に「あつた」ものではなく、鎌倉から室町の時代にかけて「徐々に成立したもの」です。日本語の表記らしい表記である歴史的假名遣も「徐々に成立したもの」と看做して良いでせう。
さう云ふ「歴史の流れの中で徐々に成立した假名遣」であるからこそ「歴史的假名遣」と呼んで良いものであると思ひます。
Q
そもそも正統っていうなら何時の時代の仮名遣いが正統なわけ? 平安時代? 戦国時代? 江戸時代? 一体どれなの? そういうことをかんがえたことってある?
A
或特定の時代の表記を基準に「正統」と呼ぶのは不適切です。
過去から現代に至るまで一貫して存在する、潛在的な日本語の原則、及びその原則を顯在化させようとする試みそのものを、觀念としての「正統表記」「正かなづかひ」と呼ぶべきである、と考へます。そして、その歴史の結果として成立してゐる表記を、當座、現代人の從ふべき規範としての「正かなづかひ」として用ゐるべきである、と正かな派は主張してゐます。
イデアを現實化する試みは、決して成功しません。また、言語それ自體として、合理性を持たない記號としての特質を持ちます。ですから、正かなづかひも決して完全なものではありませんし、あり得ません。けれども、人は理想を目指して努力し續けるべきものです。正かなづかひを認めるか認めないかの問題は、即、イデアを認めるか認めないかの問題です。

「國語と云ふ思想」

Q
明治以前、統一的な表記の体系など国家によって定められた事はなかった。歴史的仮名遣なんて幻だ。
A
どこの國だつて、近代以前に表記が統一された事なんてありません。近代的な統一國家が生れてはじめて國語の觀念も誕生するものです。明治に統一的な表記の體系が作られたのは當り前の事であり、否定すべきものではありません。
或は、國語の觀念は、すぐれて近代的なものなのであつて、それを拒絶するのは、近代を拒絶する事と同義です。即ち、「国語という思想」と言ひ、國語の概念を否定するのは、無意識の世界である前近代から意識的な近代へと進歩する事を否定する行爲にほかならず、封建的・反動的な行爲であります。
なほ、杉本つとむによれば、江戸時代に成立した所謂「江戸語」は、既に江戸時代末には地方にも傳播し、事實上の標準語として用ゐられつゝあつたやうです。その「江戸語」は、明治維新以來「東京語」となり、明治政府によつて改めて標準語として採用されたやうです。さうした標準語が江戸時代の間に成立し、整備されてゐた御蔭で、明治以降、急速に流入した西歐の文物・思想を、日本人は秩序立てて受容れる事が出來たのだ、と杉本氏は指摘してゐます。明治政府が標準語を「作つた」と云ふのも都市傳説の類に過ぎないと言つて良いと思ひます。
Q
戦前に、統一的な表記の体系が国家によって定められた事はなかったし、歴史的仮名遣が現実に正しく使用された事はなかった。だから歴史的仮名遣は伝統ではない。
A
現實に正しく使用されたか何うか、と云ふ觀點から言へば、「現代仮名遣い」もまた「存在しない」ものでせう。吾々のどれだけの人間が、正しく「現代仮名遣い」を使用してゐるでせうか。
成程、規範として「現代仮名遣い」は文部省(現文部科学省)によつて定められてゐるから「存在する」が、歴史的假名遣は誰によつても規範として定められてゐないから歴史上「存在しない」とする意見もあります。けれども、鴎外の説にもある通り、書き方の大體の傾向・法則があつて、それを教へて、無手勝流の書き方をしないやうに奬める、と云ふ教育の仕方は、明治時代以來、認められて、實施されてきたのでして、それに「ゆらぎ」があるとしても、それは現實の言語の用法自體がゆらいでゐる事、また事實の認識が不完全である事を反映してゐたに過ぎません。
觀念的に歴史的假名遣なるものは漠然と存在したのであり、それを尊重すべき事の意識は、現在の日本人が「現代仮名遣い」に對して懷いてゐる意識よりも遙かに強力に存在した、と言ふ事も出來るでせう。ならば、規範意識としては「現代仮名遣い」よりも歴史的假名遣の方が遙かに強力で、現實的であり、なほかつ自發的なものであつた、と言ふ事も出來るわけです。國家が押附けた人爲的な「現代仮名遣い」よりも、國民が自主的に從はうとした歴史的假名遣の方が、遙かに自然な存在でした。但し、民衆は「歴史的假名遣」に從はう等とは考へず、ただ「正しい書き方」があるとだけ認識してゐた事に、注意する必要があります。誰もが「正しく書かねばならない」と信じてゐたのであり、その「正しい書き方」は漠然としてゐたけれども、學問的に明かにしてみればそれは歴史的假名遣に外ならなかつたのであります。
Q
国語審議会が「漢字かな交じり文を本則とする」と言つた。これは言つてはいけない事だ。表記は漢字仮名交じり、カナモジ、ローマ字、平仮名片仮名交じりなどを自由競争させなくちゃいけない。
A
明治以來、國語審議會は「日本語を將來的に表音化・漢字廢止する事」を基本方針に、國語政策を檢討してきました。戰後來日したアメリカの教育使節團は、「ローマ字を是非とも一般に採用すること」と勸告しました。何れも、あなたの言ふいけない事だつたのではないですか。あなたはまづ「現代仮名遣」を批判すべきです。「漢字かな交じり文を本則とする」と國語審議會が方針を定めたのは、そのいけない事が常態化してゐたのを是正したものです。もつとも、その是正は遲きに失しました。國語政策は「行き過ぎ」の状態で既成事實化され、固定化されてゐます。
とは言へ、「當用漢字」以來、永年の漢字制限にもかかはらず、漢字假名交じり文は日本語の表記で最も頻繁に用ゐられて來ました。自由競爭が許されてもゐない状況下で、極めて制約のある状況下で、漢字假名交じり文は主流の地位を保つてきました。この嚴然たる事實は無視されてはならないと思ひます。
事實の問題として、日本人は表音的な表記を受附けなかつたのです。表音主義は戰後、敗北したのです。表音主義者はこの嚴然たる事實を正當に受けとめ、反省すべきです。
Q
なぜ国語を奈良や平安時代の表記に戻さねばならないのか?
A
既に述べた通り、「過去の日本語に一貫して潛在的に存在した原理原則を、意識的に再構築せよ」と私は主張してゐるだけです。
或は、歴史的に成立した歴史的假名遣は、單純に「奈良や平安時代の表記」と呼べるものではありません。
正かな派は「現代の語彙や語法を、過去の語彙や語法で置換へよ」と言つた事は一度もありません。
あなたは「愚論をでつち上げて否定する」と云ふ惡しきレトリックを使つてゐます。
もつとも「文語文」を奬める人々が「ゐる」のは慥かに事實です。が、あれは「戰術」――間違つた「戰術」です。私はあれに贊成してゐません。
Q
歴史的仮名遣なんて歴史上存在しなかった。
A
言葉は變化するものだと云ふ事は、あなたもご存じの筈。假名遣も進化してゐます。固定的な歴史的假名遣なるものは、史上、一度として現實に存在してはゐません。どんな正書法も、變化する現實に對應して、常に修正を要求されてゐます。けれども、だからと言つて「正書法の觀念が存在しなかつた、假名遣の觀念が存在しなかつた」と言ふ事は出來ません。
鎌倉時代以降、世間一般には「定家假名遣」が流布してをり、江戸時代には契冲の「復古假名遣」が成立してゐます。即ち、明治以前、既に「假名遣の概念は存在した」のであり、「假名遣ひの概念は歴史上、連綿として續いてゐた」と言へます。
さうした「假名遣の一聯の歴史」を認めるならば、さうした「一聯の歴史」の上で「成立してゐる表記の形態」を、どれも「歴史的假名遣」と呼んで良いと思ひます。
或は、假名遣の進化の過程そのものが歴史的假名遣の歴史である、と言へるでせう。そして、具體的な「個別の規範」「或時代の假名遣」は、その變遷する理念としての假名遣を、「或時代」と云ふ觀點で以つて切取つて來たものに過ぎません。それらは、現象學的に言へば、現出者としての「歴史的假名遣」の個別の現出である、と言ふ事が出來るでせう。
別の言ひ方をすると、「現代仮名遣」は、さう云ふ固定的な假名遣が「存在する」と云ふ時點で間違つてゐるのです。
Q
明治政府が歴史的仮名遣いを採用したと言っても、それは偶然に過ぎないのでは? 表音的仮名遣いを採用する可能性だってあったのではないでしょうか?
A
もちろん、可能性と言つたら何だつてあり得ます。
實際には、「表音的に物を書く」習慣が當時の日本人には一般に存在しませんでした。文字を讀める人にとつては表語的な表記が當り前だつた訣です。さう云ふ状況下で、明治政府が既存の表語的な表記を教育の現場で採用したのは、極めて自然な事だつたと思ひます。歴史的假名遣を採用したと言ふより、既存の表語的な表記を採用して、それを教へるのに歴史的假名遣の原理を用ゐる事にした、と言ふのが正確な言ひ方だと思ひます。
Q
明治政府が行なった歴史的仮名遣の強制は許されない事ではないのですか?
A
明治政府が一般の國民に歴史的假名遣の使用を強制した事實はありません。ただ、教育の現場で教へられたのが、既存の表語的な假名遣であり、それを合理的に整理する都合上、歴史的假名遣の原理を採用したに過ぎません。
明治政府の内部で國語教育に關つた人々の中に表音的假名遣を支持する表音主義者が多數存在した事は、歴史的假名遣の強制が無かつた事の決定的な證據です。
ちなみに、言語學者の龜井孝氏が「明治欽定かなづかい」とか言つてゐるさうですが、「明治天皇が假名遣を發布した」事實はありません。「明治欽定かなづかい」なる言ひ方は、事實に反した、言はゞ言語學的に誤つた言ひ方です。龜井氏は揶揄としてそんな事を言つてゐたやうですが、言語學者としての良心が龜井氏には無かつたのでせうか。