當サイトの主張について説明いたします。
當サイトは、「正漢字正かなづかひの復興運動」としては「敗北」するものと考へてゐます。心の中では正漢字正假名遣の復興を願ふ訣ですが――現實問題としてそれは不可能です。その點、多くの人が誤解をしてゐるやうですので、最初に述べておきます。
「正かな信者」は「自分たちが絶対に正しいと称しているから、傲慢である」と極附けて、熱心に當方への攻撃を續けてゐる人が、ウェブ上に存在します。この種のアジテーションを鵜呑みにし、「正かな信者」批判を通り越して正かなづかひそのものへの攻撃に走る人すらもゐるのですが――實は、この種の人々は、「正かな復興運動」が「敗北する」と決つてゐるがゆゑに、自分たちが現在用ゐてゐる「現代仮名遣」が「勝利」したものと思ひ込んでゐるのです。
彼等は、「敗北者である正かな信者」を侮辱して快を貪つてゐるのです。それは彼等の口ぶりを見れば良く解ります。彼等は「正かな信者」を「傲慢」と言つて罵倒してゐますが、自分逹自身の思ひ上りはその口調に良く表はれてゐます。
實は、この種の「思ひ上り」は、「現代仮名遣」を常用してゐる多くの現代の日本人に、暗に存在するものです。多くの人が、戰後の民主主義體制下で制定された制度の中に生れ育ち、安心して「現代仮名遣」を使用してゐます。その安心こそが思ひ上りである訣です。
從來一般に使はれてゐた表記、漢字とかなづかひを、「簡易化」する事で、日本人は「民主化」される――さう「表音主義者」は信じて、戰後の混亂のどさくさに紛れて國語改革を強行しました。それが結果として「役に立つた」と云ふ評價は、あちこちで見られますが、文部官僚出身者が先輩を持上げる爲に言つてゐるか、或は、國語改革の推進者に學んだ人々が「洗腦」されて言つてゐるかのどちらかです。
しかし、全てのドグマ、全ての「理想主義」には、光の面とともに影の面があります。「民主化の實現」を標榜した漢字制限とかなづかひの表音化にも、戰前、「植民地への日本語普及の爲」と云ふ理由附けがなされてゐた事實があります。戰後、民主化の流れの中で實施されたが爲に、國語改革は民主化とセットであると認識されてゐますが、漢字制限と表音的假名遣の強要が個人の自由を制限するものである事實は否定出來ません。
中華人民共和國で漢字の簡體化が實施され、成果を擧げた事は良く知られてゐます。日本での國字改革も、或程度は「成果を擧げた」と言へなくもないでせう。けれども、後進的な社會を一定のレヴェルに引上げる爲に必要な「制限」も、知的に高度な段階に入つてゐる社會では單なる足枷にしかなりません。現在の日本は教育が普及し、多くの國民の知性は既に高いレヴェルに達してゐます。斯うした状況で行はれてゐる「国語行政」は、戰後の國語改革の體制を維持するだけの爲に實施されてをり、依然として愚民政策の域を脱してゐません。
ところが、國語における愚民政策に、現在の日本人は無頓着です。その點、現在の國民も、知的レヴェルが上がつたとされる割に、以前よりも知性的でなくなりつゝあると見る事が可能です。と言ふより、國語の「民主化」で、知性の向上は實現する事が出來なかつた、と見た方が正解でせう。寧ろ、今の「国語行政」に、現代の日本人は誇りすら感じてゐるやうです。「常用漢字」や「現代仮名遣」を、今の日本人は、自ら求めて自ら勝ち取つた「勝利の証し」のやうに感じてゐるやうです。けれども、その「勝利感」は、思ひ上り・傲慢そのものです。
當サイトの意圖は――と言ふより、現在の情勢下で正字正かな派が依然として現代の表記を批判し續けてゐるのは、「現代の體制の打倒」が不可能であるにしても、「現代の體制の無批判な禮讚」を咎める爲であります。
多くの「アンチ正かな信者」の人が誤解してゐるのですが、私・野嵜も含めて、我々は「正かな信者」ではなく「アンチ現代仮名遣い信者」です。「現代仮名遣信者」の傲慢を批判する爲に、我々は「アンチ」の立場を取つてゐるものです。それを「正かなづかひに對する無批判な禮讚」と捉へ、「信仰」と見誤つたのは、「アンチ正かな信者」の人々に、自分逹の態度を反省する姿勢がそもそもなかつた=傲慢であつた事の決定的な證據でせう。私を非難するアンチの人は多いのですが、だからこそ私は正字正かなの正しさを敢て主張し續けて行かねばならないと思つてゐます。
以下の三つの事が、正漢字正假名遣の主張には必要であると考へてゐます。
「常用漢字」の見直しと前後して、文部官僚出身者による歴史的假名遣への攻撃と「現代仮名遣」禮讚の本が出版されるなど、「戦後国語体制」を「保守」せんとする動きが活發化してゐます。斯うした状況下、正漢字正假名遣を攻撃する勢ひが、ウェブでも高まり、さうした流れに乘つて「アンチ」の人々が正かな派への惡質な攻撃を繰返すやうになつて來てゐます。さうした情勢の下、正字正かな派=國語改革に反對する人間は、飽くまで冷靜な態度を崩さないやうにしたいと思つてゐます。「アンチ」の人々にも、感情的で陰濕な態度――實はさうした態度は國語改革の推進派が常に取つて來たものです――を捨てて、落著いて・理性的に、或は打算を捨てて、國語と云ふものを國民の爲によりよく活かすには何が必要であるか、を考へていただきたいと思ひます。
「正かなの主張は、現代の國語を良しとして安心してしまつてゐる戰後の人々に、うしろめたさを覺えさせる爲、細々とでも殘して行かなければならない」――この考へ方は、最う隨分前に松原正先生とお話させていただいた時、示唆されてゐたのですが、現在に至るまでこのサイトでは必ずしもはつきりと示してゐませんでした。今となつては「出し遲れの古證文」となつてしまつた觀もありますが、今の時期だからこそ改めて掲げておく意義はあるのかも知れません。この種の批判が存在すればこそ、その社會は健全であり得るのだから、と云ふのです。批判そのものを抑へ込むならば、その社會はファシズムの社會と異るところはなくなります。
なほ、ここで述べた事柄については、同じ正漢字正假名遣を用ゐる人の間にも異論があるものと思ひます。ここでは、當サイトでの認識を示し、立場を表明してゐるのであつて、これ以外の考へ方を頭から否定するものではありません。ただし、或種の主張については、同じ正字正かなを用ゐる人の意見であつても、當サイトとしては贊同し得ない場合があり得ると云ふ事は御承知おき下さい。