制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
闇黒日記2005-11-09
公開
2005-11-12
改訂
2012-01-12

高梨健吉「英語研究ノート」に見られるローマ字論

『英語研究ノート』なる本を拾つて來た。

著者兼発行者の高梨健吉はチェンバレン等の研究をした慶應義塾大學の英語の先生。この「本」は、その高梨先生が、寄稿した雜誌とかノートとかをコピーして自ら纏めた私家本(だと思ふ。限定二百部のうちの一册。見開きに獻辭あり)。

三田評論昭和52年3月號に載つた「ローマ字表記について」なる文章で高梨先生、日本式・訓令式のローマ字を罵つて、ヘボン式の方が良い、と言つてゐる。この先生はローマ字主義者である。全文紹介して、そこで展開されてゐる論理のををかしい事を一々指摘したいのだけれども面倒なので一部分だけ引用。日本式ローマ字を批判して高梨先生曰。

日本語のシを、日本式ではsiで示し、ヘボン式ではshiで示す。「指す」という動詞のように語幹が-sで終る動詞の活用を示すには、「指さん、指し、指す、指せ、指そう」の五つの形をsas-an、-i、-u、-e、-o と書いたほうが、sashiの場合だけshiにするより簡便だと日本式の主唱者は主張する。これではシとスィとの両音を混同することになる。眼に都合がよくなるために、耳を無視したことになる。英語でもgo, went, goneという動詞の活用がある。これが不規則で目ざわりだからといって過去形をgoedに勝手に変えるわけにもゆくまい。これは言語の歴史的変遷の結果そうなったので、今さら現実を無視することはできない。

高梨先生、自分では論理的な事を言つてゐる積りなのだらうけれども、その「論理」が目茶苦茶。「表記は發音に從ふべし」と言つてゐるのだけれども、その例證に高梨先生、英語の表音的ならざる綴りを持出してゐる。擧句、言語の歴史的変遷の結果そうなったので、今さら現実を無視することはできないと言つてしまつてゐる。あなた今、言語の歴史的變遷の結果成立した、現實に存在する日本語の漢字假名交じりと云ふ表記を否定しようとしてゐるのではないですか。「日本語のローマ字表記」を根本的に否定する論理を自分が使つてゐる事に、高梨先生は氣附かない。自分で自分の主義を否定して、高梨先生は頭が惡いなあ、と思ふ。

書き言葉と話し言葉を混同してゐるから高梨先生の「論理」は根本的に論理として異常。しかし高梨先生はその異常を自覺出來ない。なぜかと言ふと、高梨先生は「書き言葉と話し言葉を混同して區別しないのは正しい」と思ひ込んでゐるから。

表音主義者は皆、「文字が少い方が簡單」とか「書き言葉は話し言葉に從ふべし」とか、恐ろしく單純な「理論」を信じて、それに從つて現實の表記を弄り囘してゐる。彼等は自分の信ずる、さうした單純な「理論」が本當に正しいものなのか、決して疑はうとしない。「餘りにも當り前なので疑ふ必要なんて感じられない」と彼等は言ふだらう。しかし、實際のところ、それらの「理論」は全て疑はしいし、實際、簡單に誤である事が證明出來るのである。「文字が少ければ簡單」と云ふ「理論」は、「ぢやあなんで0と1しか使はないパンチカード式の入力が廢れて、BasicやC/C++みたいなプログラミング言語が開發されたんだよ」みたいな「揚げ足取り」で一發で粉砕される。

現實に、國字改革の結果、表音主義者の考へたやうに日本語は簡單にならなかったし、現在の「文字の世界」は異常なまでに混亂してゐる。日本語文字セット・文字コードはぐちやぐちやだし、人名用漢字は相變らず大論爭を惹起こすし。明かに「國字改革は失敗だつた」のが判つてしまつてゐる――のだが、表音主義者は反省しない。精々「國字改革が不徹底だつたから失敗したのだ」くらゐの事しか考へてゐないだらう。實際、未だに國語政策に深く入り込んでゐる表音主義者は、何とかして文字の劃數を減らさうと劃策してゐる。最早、一般人には這入り込めない程、國字の問題は混亂・複雜化し、その爲に「國語エリート」となつてゐる表音主義者は安心して「自分の領域の中だけで苦しむ」事が出來てゐる。しかし、さう云ふ一般人の這入り込めない「聖域」が「出來てしまつてゐる」事自體、表音主義者の理想と、國語の現實とか乖離してしまつてゐる明白な證據ではないか。

國字改革の理想において、國字は人民に解放されるべきであり、「專門家」の存在は否定されるべきものであつた筈だ。それなのに國字問題には「專門家」が存在し、さうした僅かな數の人間が國語政策を仕切つてゐる。彼等「專門家」は自分逹のやつて來た事を誤だと認めない。今も彼等は既定の路線を突進んでゐる。未だに「反對者は反動」である。併し、彼等が自分逹の無謬なる事を信じ――或は、自分逹の無謬なる「事實」を人民に押附けて自らの「エリート性」を守らうとしてゐるのなら、さう云ふ迷妄は打破されるべきである。我々「人民」は、「エリート」に成上がつた彼等表音主義者の愚民政策に欺され續ける事なく、民衆の常識を武器に反抗すべきである。

――と言ひたいのだが、ソ聯と違つて日本の表音主義者は強力な敵を持たず、今に至る半世紀以上の間、安穩と暮して來たやうに、これからも安閑としてゐられるであらう。何事も無ければ、國字政策の反對者は爆發的に増える事はない。日本で國情が大きく變化するのは、外國の情勢變化が唯一の原因である。餘程の事がなければ日本人の發想は轉換しないし、ならば國字に對する一般の意識もさうさう變化はしない。そして今、世界の情勢が大きく變化すれば、日本國は多分、すぐ潰れる。潰れないまでも、恐らく世論操作の巧い表音主義者に煽られて、一氣に漢字廢止――或は日本語廢止にまで行つてしまふ可能性すらある。何處かの飛んでもなく御人好しな國が日本を侵掠して、國語の正常化を押附けてでも來ない限り、日本の國語政策はまともにならないし、世間での意識も變らない。

が、何う考へても御人好しが侵掠をする訣がないので、まあ、野嵜は「そんな事あり得ない」と言つてゐるのだと理解して下さい。反論不要。

高梨健吉『英学ことはじめ』

書誌
昭和四十年十月十日 初版発行
角川書店 角川新書
カヴァ

福原麟太郎序文。

本文中の引用文は、よみやすくするために、新かなづかいにあらためてある。なお巻末の「資料集」は旧かなづかいによっているが、これも原文よりはよみやすく配慮してある。

日本の英文學の研究者には、福田恆存、福原麟太郎、吉田健一、といつた表記について保守的な立場をとる人々がゐる一方で、岡倉由三郎、市河三喜、といつた「進歩的」な立場をとる人々がゐる。高梨健吉も後者の流れに屬する英文學者の一人。