制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-06-05
改訂
2002-03-22

日本人の名前のローマ字表記

「姓→名」信者

先年、国語審議会が、日本人の名前の表記は「姓→名」の順で書くのが望ましい、と言出して、妙な所で日本人としての自意識が過剩な一部の人々から歡迎されてゐる。日本の傳統的な表記である正字正かなには洟も引つ掛けないやうな態度を取つてゐる連中が、「姓→名」と云ふ人名表記は日本の傳統的な表記であつて、絶對に讓れないものなのだ、と息卷いてゐる。噴飯ものとしか評しやうがない。

「かなづかひの問題とローマ字による名前の表記とは話が別」と連中は却つて居丈高に言返すだらうが、その主張が墓穴を掘るやうなものである事に連中は絶對に氣附かない。「日本語での表記と、英語での表記は、話が別」、と云ふ指摘を受けたら、彼らは何と反論する氣だらう。

日本語の漢字假名交じり文で「姓→名」が妥當な表記である事と、ローマ字表記で英語式の「名→姓」が妥當なものである事とは、それこそ「話が別」の問題ではないか。なぜローマ字表記の話に、「姓→名」と云ふ漢字表記の原則が持込まれなければならないのか。「姓→名」原理主義者は、この指摘に絶對に反論出來まい。彼等の主張は自家撞着に陷つてゐる。もつとも、彼らは斯る批判を鼻で嗤ふ事で無視し、「馬鹿」だの「電波」だの「トンデモ」だのと云つたレッテルを貼つて封ずる事で、安心を得ようとするだらう。

「名→姓」にも理はある

非常に俗つぽい言ひ方だが、英語では重要な事を先に言はうとし、日本語では肝腎な部分が後囘しにされる。英語では、主語に續いて動詞が出現し、主語がどうするのかを先づ、ずばりと言ひ表す。日本語では、主語のあとに形容句などが續き、文末の助詞・助動詞が出現するまで、主語がどうである、どうした、何である、がわからない。

かう云ふ解釋から、「名→姓」と云ふ英語の人名表記が屡々西歐の個人主義を象徴するものとして捉へられる。一方で、日本語の構造から言つて「姓→名」と云ふ人名表記では、「名」にこそ重要性が認められるべきである、と見るのが論理的な判斷と言ふべきものだらう。

にもかかはらず、「姓→名」と云ふ日本語の人名表記が日本人の「家族主義」や「封建的な精神構造」を證明してゐると屡々言はれる。ここに私は現代日本人の「自虐的」な精神構造、或は恣意的な判斷を平然と行ふ精神構造を見出すのだが、その恣意的な判斷を下す精神構造が再び、日本人の人名をローマ字表記する際に「姓→名」の順番にせよ、と云ふ主張を生んでゐるものと、私は考へるのである。

判斷の留保

日本語の形式を重んじて「姓→名」と云ふ表記を一貫して用ゐるべきか、日本語の原則と英語の原則とを勘案して漢字では「姓→名」、ローマ字では「名→姓」と云ふ表記を使ひ分けるべきか、は、すぐに判斷出來るものではない。そこに、混亂の生ずるきつかけがある譯だが、安易に一方の表記に制限し、「言論統制」を行ふのは感心しない。

個人的には、現在妙に分が惡い「ローマ字では『名→姓』」と云ふ主張を支持したいと思ふ。しかし、日本語の名前を英語で表記する、或は日本語をローマ字で表記する、と云ふ事自體に問題がある筈である。日本語のローマ字表記に、「絶對に正しい」書き方がある譯ではない事を肝に銘じておかない限り、「姓→名」「名→姓」それぞれの支持者は互ひに相手を「宗教的」に罵るだけであらう。

もつとも、それで結局方が附くのだらうから、日本は嫌な國なのである。

參考文獻/御意見