制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-07-30
改訂
2005-09-09

ローマ字とローマ字表記

江戸時代以前

16世紀後半、ポルトガルから渡來した宣教師がローマ字を齎した。以來、キリスト教布教の爲の文書にローマ字が用ゐられた。宣教師や信者が日本語やポルトガル語(等)を勉強する爲の辭書、或はキリスト教やそれ以外に關する文獻を表記するのに、ローマ字が用ゐられたのである。それらの文獻を「キリシタン文獻」と呼ぶ事があるが、當時の日本語の音韻に基いた表記である爲、國語史の貴重な資料となつてゐる。

それらの文獻は、基本的には、もともと日本語を使用してゐない外國人向けの文獻であつた。國内のみならず、海外でもローマ字表記の文獻が印行・出版された。

鎖國により、國内でローマ字が一般に普及する事はなかつたが、一部の學者はローマ字による日本語の表記に關心を懷いてゐる。新井白石がローマ字に關心を持つた事は有名。

明治〜戰前

江戸時代末から明治時代にかけて、アメリカ人を中心に、外國人が日本を訪れるやうになり、キリシタン文獻とは全く別個に、ローマ字による表記が試みられるやうになつた。

ローマ字は、もともと日本語とは異る言語で使用される爲に成立したものであり、それを無理矢理日本語の表記に用ゐようとした爲、複數の方式が竝立し、對立する事となつた。

ヘボン式/標準式

アメリカ人宣教師J. C. Hepburn(ヘボン)は1867年、『和英語林集成(A Japanese and English Dictionary with an English and Japanese Index)』を著し、英語の發音に基いて日本語を表記した。ただし、この時點でのヘボンのローマ字は、のちの所謂「ヘボン式」のものとはかけ離れたものである。

漢字・かなを廢止し、ローマ字を國字とする事を目的として設立された「羅馬字會」は1885年、「ローマ字にて日本語の書き方」を發表した。ここで提唱されたローマ字表記は、子音を英語より採り、母音をイタリア語(ドイツ語或はラテン語)から採る、と云ふ方針で定められたものであつた。このローマ字の方式は、ヘボンの『和英語林集成』第三版で採用され、以來「ヘボン式」と呼ばれるやうになつた。

「ローマ字ひろめ會」はその後、「ヘボン式」に修正を加へ、それを「標準式」と稱した。

「ヘボン式」のローマ字は、「英語式の表記」と云ふ事で、英語教育關係者から支持されたらしい。しかし、英語圈の人や、それ以外の語圈の人にとつても、理解し易いローマ字なのかと云ふと、必ずしもさうとは限らないやうである。

日本式

1885年、田中舘愛橘は「羅馬字用法意見」を「理學協會雜誌」に發表した。田中舘は英語式の表記に反對し、各行の子音を一つに統一した綴り方である「日本式」ローマ字を用ゐるべきだと主張した。

「日本式」ローマ字は、五十音圖に基いたローマ字である。「ヘボン式」が子音を實際の發音に近い文字で表記するのに對し、「日本式」は五十音圖で該當する場所にある子音を用ゐて表記する。

日本語の「音韻意識」に基くローマ字表記であり、ヘボン式よりも一貫性がある、と云ふ事から、言語學者には汎く支持され、寺田寅彦のやうな科學者にも支持を得た。しかし、英語と同じ文字を使用するにもかかはらず英語と懸離れた發音となる爲、英語に馴れた人々からは「拒絶反應」が出たらしい。

訓令式

「ヘボン式/標準式」と「日本式」とは長い間對立してゐた。その後設置された臨時ローマ字調査會は、檢討の上昭和12年に内閣訓令として「訓令式」ローマ字を公布した。この「訓令式」は「日本式」をベースにしたもの。

その爲、「標準式」支持者は「訓令式」に反對した。ローマ字統一は實現しなかつた。

戰後

大東亞戰爭で日本が負けると、アメリカは日本に教育使節團を派遣。教育使節團は當初、ローマ字の使用を勸告した。日本が軍國主義に陷つたのは難しい國字の爲に教育が進まず、國民の知的レヴェルが低かつたからに違ひないと想像されたからである。しかし、調査の結果、日本人の識字率が高い事が判明して、使節團は主張を引込めた。にもかかはらず、表音主義者は、敢て既存の國字の「體制」を否定する國字改革を實施した。(別項)

また、アメリカは、敗戰日本を統治する爲にマッカーサーを司令官とするGHQを設置してゐた。日本國内には、軍人をはじめ、多くのアメリカ人が入つて來た。彼らの爲に、驛名標等で歐文表記が必要となつた。アメリカ人は英語を使用するので、英語の發音に近い「ヘボン式」のローマ字表記がこの時期、汎く用ゐられた。サンフランシスコ講和會議の結果、日本は獨立を恢復する事になり、アメリカ軍の統治は終了したが、それまでの間に「ヘボン式」は可成りの程度、普及してしまつてゐた。

「現代かなづかい」「当用漢字」を公布した国語審議会は、ローマ字に關しては「愼重」に審議を進め、昭和29年12月になつて漸く内閣告示として「ローマ字のつづり方」を公布した。「ローマ字のつづり方」では、第1表は訓令式(ほぼ日本式)を採り、第1表から漏れた「日本式」の表記と「ヘボン式」の表記とを第2表に收めてゐる。

一般に国語を書き表わす場合には第1表に據り、国際的関係その他従来の慣例をにわかに改めがたい事情にある場合に限り第2表の方式を用ゐる事が認められる、とされてをり、基本は一往「日本式」である。しかし、現實の社會で「ヘボン式」が普及してしまつてゐる以上、「日本式」に完全に統一するのは避けざるを得ないとして、結果として内閣告示は折衷的な書き方になつてしまつてゐる。

ISOでは、1990年、「訓令式」を標準として採用してゐる。ただ、矢張り現實には「ヘボン式」が一般に使用されてゐる状況で、「日本式」は初等教育で用ゐられてゐるに過ぎない。驛名の表記に用ゐられたり、パスポートに記載されたりして、我々の目にする機會の多いローマ字は「ヘボン式」であると言へよう。

ローマ字の問題點

複數の方式がある事による問題

小學校などの教育の場では基本的に「訓令式」(但し主に「日本式」の規則)が採用され、實社會では英語表記に基いた標準式が慣習として定着してゐる。「教育と實社會との間で矛盾が見られる事は問題である」と云ふ事は、屡々指摘されてゐる。

だが、問題は、異る方式の間の「矛盾」にだけあるのではない。

訓令式のローマ字を學んだ小學生が中學生となつて英語を學ぶ際、屡々支障を來してゐる、と云ふ現實がある。日本語のルールと英語のルールとは異るが、訓令式のローマ字を學んだ生徒は、それを理解出來ない。中學校に上がつて英語を習つた時、「英語の單語にはそれぞれ英語特有の發音があるものである」と云ふ事を、彼等はなかなか理解出來ない。或は、ローマ字式の讀みで當座、英單語を覺えようとする爲、英語の正確な發音が出來なくなる。

英語の規則と日本語の規則とを區別出來ない子供に、日本語を表記する爲のローマ字を安易に教へるのは危險である。

ローマ字を「國際的」だと云ふ理由で支持する人は反省すべきである。

可讀性の問題

文字の組合せによつて語は表記される。ならば、人間が語を判別し、迅速かつ正確に理解出來るやうな表記(=文字の並べ方)こそが良い表記である筈だと言へる。

ローマ字論者は、單に文字の種類(數)だけを見て、表記の是非を判斷してゐるやうに思はれる。しかし、「文字が如何なる形で並べば讀み易いのか」と云ふ「質の議論」をする事は可能だらうし、より良い表記を求めるならば「質の議論」は必要だらう。ところが、その邊の議論を、ローマ字論者は避けてゐるやうに見える。或は、ローマ字論者は「慣れである」と云ふ言ひ方で、簡單に話を濟ませようとしてゐるやうに思はれる。

日本語の音韻の性質に據り、ローマ字表記の文章は、常に母音或は母音と子音の組合せによつて表現される。その爲、ローマ字表記の文章は、まどろつこしくて讀みづらいものとなる。餘りにも母音(aiueo)の文字の出現頻度が高い爲に、讀者はローマ字文を冗長だと感ずるものだ。或は、日本語をローマ字で表記した場合、似たやうなパターンで文字が繰返し出現する爲、個々の單語の區別をつけにくい。

子音をC、母音をVで表はしてみよう。すると、日本語の文章をローマ字で書くと、CVのパターンが繰返し出現する事になる(CVCVCVCVCVCVCVCVCVCVCVCVCVCVCVCVのやうに)。ここで考へていただきたいのだが、かう云ふ單調なパターンになるローマ字表記で、我々は容易に單語の切れ目を判別し得るだらうか。例へば「赤い花が咲いた」は「AKAIHANAGASAITA」となる。漢字假名交じり文では用言の語幹と體言とが漢字で表記される爲、單語の切れ目は明確である。しかし「AKAIHANAGASAITA」と云ふローマ字文ではさうではない。我々は頭から一つ一つ文字を拾つて、CVで一音節である事を考慮しつゝ、複數の音節が幾つか續いた或時點で一つの文節が出來てゐる事を何とかして認識し、さらにそれ等を綜合して一つの文を認識しなければならない。何うだらうか。想像しただけで面倒臭さうなプロセスが待構へてゐる。

人間は、パターンで物事を認識する。ローマ字表記では、單調なパターンの繰返しが出現する。これは人間の認識能力の特性から考へて、認識し易いとは言へない。ローマ字表記における單語認識の問題は、「慣れ」で濟ませられるものではない。

そこで、ローマ字主義の人々は、色々な方式で單語の切れ目・文節の切れ目を表現する事を構想してゐる。しかし、ローマ字は昔ながらの表記法でない爲、豊富な用例に基いて檢討する事が不可能であり、また多くの人に使はれてゐないから「自然撰擇」も行はれてゐない。結果として、抽象的な議論が繰返される許りで、樣々の文節區切りの方法が概念・主張として亂立してゐるのが實状である。

一往、分かち書きするのが比較的多くの人に認められてゐる方法であるとは言へる。しかし、その分かち書きのやり方にも議論の餘地があるし、實際に統一がとれてゐない。分かち書きの基準としての「文節」の概念自體が、現時點で言語學的・文法學的に決定されてゐないからである。また、假にそれが決定されてゐたとしても、正しく文節毎に分かち書きする爲には正しい言語學や文法の知識を持つてゐる事が必要となる。さうなると、表音主義の「容易に書ける」と云ふ主張は、根柢から突崩される。

諳記を強ると云ふ問題

アルファベットは26文字、漢字は數萬字、と云ふ比較をする人がゐる。この比較は無意味である。表音文字と表意文字を比較するのは間違ひである。表意文字一字は、表音文字を組合せた一つの單語に相當する。

日本人が英語を覺える際、英單語の綴りを覺えるのに苦勞する事實を、ローマ字論者は忘れてゐる。漢字の諳記と、ローマ字に據る單語のスペリングの諳記と、どちらが厄介か、を、ローマ字論者は考へてみるべきである。無機的なローマ字表記を諳記するのは、子供にとつて苦痛である筈である。一方、漢字を子供が喜んで覺える事實は、石井勲氏が報告してゐる。

讀みと書きの分離

日本語の長い歴史の中で成立した「かなと漢字の交ぜ書き」と云ふ表記は、本當に不合理なものであらうか、日本語に適さないものであらうか。日本語を表記する上で、ローマ字による冗長な表記と、かなと漢字の交ぜ書きに據るメリハリのある表記と、どちらの方が讀み易いものであらうか。

ワープロやPCのIMEで文字を入力する際に、ローマ字入力を用ゐる事は、便利であると言へば便利である。しかし、かな漢字變換によつて、ローマ字入力された文字列を漢字假名交じりの文章に變換する事は、容易に出來るやうになつてゐる。

このかな漢字變換と云ふ手間を惜しむのは、記述者の手拔きであり、その附けは讀者にまはされる、と云ふ事を、我々は認識すべきである。