制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-09-09
改訂
2007-11-25

表音主義者の主張とは?――「日本語の再構築=日本語ではない人工語の構築」

嘘を吐いて自分に都合の良い言語を作らうとする表音主義者

自分逹に都合が良くなるやう事實を歪曲して傳へる人々

表音主義者は、例へば野村雅昭のやうに、漢字を毛嫌ひしてゐます。彼等は、漢字に利點があり、それを過去の日本人が活かさうとしてきた事を知つてゐます。それなのに彼等は、さうした現實に對し「漢字崇拜」「漢字の禍」なるレッテル貼りを行ひ、漢字に慥かに「ある」缺點を、故意に誇張して、「漢字は廃止すべきである!」と極附けます。

表音主義者は「日本語は變質させなければならないものである」と信じてしまつてゐます。彼等は、實は「傳統的な日本語の表記にもそれなりの妥當性がある」と云ふ事を知つてゐます。知つてゐながら、それを故意に無視します。

彼等は、自らの信ずるイデオロギーを實現する爲に、事實を枉げ、過去の日本語の表記が恰も不便なものであつたかのやうに見せかけ、「日本語は改良されなければならない」と人々に思ひ込ませようとします。

自分逹に都合の良い「新しい日本語」を創造しようとする人々

表音主義者は、日本語を「日本語以外の新しい言語」にしてしまはうと考へてゐます。

彼等は「とにかく日本語の表記は變へなければならない」と思ひ込んでゐます。「日本語は變へねばならない!」――彼等にとつてこれは至上命令です。その至上命令に從ふ爲、彼等は傳統的な日本語の表記を「不合理」と宣傳し、日本語を不必要に變化させようと――否、變質させようと劃策してゐます。

彼等は、今の・既存の日本語が大嫌ひです。彼等は、「彼等の望むやうに變質した日本語」を「愛してゐる」だけです。しかし、「變質した日本語」は、最早、日本語ではありません。それが彼等には解つてゐない。

新し物好きの日本人

古いものでも長く使はれてきたものにはそれなりの合理性・妥當性があるものですし、日本語の傳統的な表記に合理性は實際「ある」事が明かになつてゐます。その事は――繰返し申し上げますが――實は彼等表音主義者も知つてゐるのです。

彼等の惡質なのは、漢字の合理性を知りながら、「漢字は不合理である」と事實を歪曲して宣傳してゐる事です。「表音主義者は嘘吐き」なのです。とぼけるのは止めて貰ひたいものです。

ところが、一方で、彼等は「新しい」と云ふ事を「良い事」だと勘違ひしてゐます。だから、實は彼等は「とぼけてゐる」のではありません、心から自分逹の主張は正當なやり方で行はれてゐると信じてしまつてゐるのです。だからこそそれは勘違ひだと言はねばならないのですが、勘違ひしてゐる人に自分の勘違ひは認識出來ません。

ところがその勘違ひした少數の表音主義者が、日本の國語を變へてしまひました。これは、勘違ひしてゐない筈の多くの一般の人々が、彼等の主張を否定出來なかつた爲です。殊に、戰後の國字改革の際には、彼等の主張は積極的に受容れられたと言つて良いでせう。なぜ一般の人々は表音主義者の勘違ひを否定出來なかつたでせうか。それは彼等表音主義者が「新しい日本語」の創造を主張したからです。戰後は「新しい」もの即ち「正しい」ものと云ふ觀念が、一般の國民に定着してゐます。その爲に「新しい日本語」を作らうと云ふ表音主義者の主張は、理論が何うであれ受容れられたのです。そして表音主義者も、そこに附け込んで、積極的に自分逹の主張の「あたらしさ」を宣傳しました。

現在も多くの日本人が「古めかしい」からと言つて正字正かなを毛嫌ひしてゐます。「新しい」と云ふスローガンが效を奏して、國字改革は多くの戰後の日本人に支持されてしまつてゐるのです。

表音主義者の責任を問はない日本人

常に少數派であつた表音主義者ですが、過去から現在まで、國語行政に深く係はつて、實際に日本語を破壞して來ました。

彼等は國字改革を主導し、「当用漢字」「現代かなづかい」を内閣告示としました。この内閣告示が鄙劣かつ不法なものである事は、美濃部達吉博士が早くも昭和二十三年に「國語かなづかひに附いて」(「文藝春秋」六月號)で指摘してゐます。内閣告示には強制力も何もない訣ですが、しかしそれが現實には強制力として働いて國語の表記を全面的に改變し、一方建前上は強制力が無い事になつてゐる爲に、國語改革が「自然なもの」だと云ふ言ひ訣を正當化する理由となつてしまつてゐます。この邊の曖昧さは極めて問題ですが、日本人は曖昧な事は曖昧にしたまゝ現状を容認する癖があるので話になりません。

何れにせよ、「当用漢字」「現代かなづかい」は現實に日本語の表記を變質させました。「現代かなづかい」には、助詞の「は」「へ」「を」を典型に、歴史的假名遣の規則が部分的に殘されてゐます。しかしそれは、「現代かなづかい」への批判に對して「現代かなづかいは決して表音的仮名遣いではないのですよ」と説明する爲の、言ひ訣の爲の規則として、或は「正かな派」への妥協として、「取敢ず殘されたもの」に過ぎません。そして、さう云ふ曖昧な妥協、曖昧な言ひ訣が「ある」爲に、現在の多くの日本人はこの「新しい表記」を「大變良いもの」と思ひ込んでしまつてゐます。しかし、さうやつて少數派の表音主義者は、自分逹の信念をそつと多數派の一般國民の頭の中に滑り込ませ、言はゞ「洗腦」を行なつて來たのです。

彼等表音主義者の罪は大變重いのですが、彼等の跳梁跋扈を放置して來た國民にも責任があります。もちろん、戰後直後の混亂期に、拔き打ち的に國字改革が強行され、「より表音的な表記」が押附けられてしまつた事は、國民を辯護する理由となるでせう。しかし、情勢が落著いてからも、國民は「御上に與へられた表記」を、「新しい表記」だからと言つて、無批判に受容れ續けました。これは國民の知的怠惰を意味します。