制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
2000-09-16「闇黒日記」
公開
2001-03-03
改訂
2002-05-26

音聲言語は人間の言語の本質か?

人間の言語の本質は音声言語」(後藤斉氏)と云ふ主張に反對する。

「音聲言語」と「文字言語」は媒體

人間の言語の本質は、或人間の認識が他の人間に傳へられ、結果として兩者が認識を共有する、と云ふコミュニケーション自體にあるのであつて、音聲や文字は媒體に過ぎない。「音聲言語」だけを偏重するのは誤りである。

後藤氏は、呼吸や食物の摂取といった、生命の維持にとってより基本的な働きをする器官を音声言語を発するために転用した、だから音聲言語は極めて效率的である、と解説する。しかし、表記に關しても、「手や指と云つた細かい作業一般に特化した器官を文字を書く爲に轉用した」と言へよう。そもそも、人間のする事は、何であれ效率的である。

音聲言語は、後藤氏の言ふやうに、即時性にすぐれてゐるのは慥かである。しかし、文字言語は保存性と云ふ點ですぐれてゐる

兩者は全く異る目的に最適化されてゐるのであり、對等である。ヒトの言語にとって音声が第一義的なものなのであって、それは言語のあり方のいろいろな面に現れています、と云ふ後藤氏の主張は一面的なものである。後藤氏は、必ずしも言語のあり方いろいろな面から見ようとしてゐる譯ではない。

日本語の獨自性

和語と漢語を組合せ、表記に於て假名と漢字を使用する日本語は、西歐諸語と眞つ向から對立する「文字言語主導型」の言語である。日本語の存在自體が、「音聲こそが言語の本質」なる主張への最大の反證である。西歐流の言語學の「常識」に過ぎないものを、「人類一般の常識」に摩り替へないでいただきたい。

エスペランティストや表音主義者が、どう云ふ譯か個性を認めず、日本語も西歐の言語も一緒くたにして論ずるのは、いかがなものかと思ふ。個々人の個性・特性を認めないやうな考へ方は「統制狂」的であり、世界の平均化・均質化を促し、人類の進歩を阻害する。

言語の習得に於る問題

世界の言語の中には、 24もの母音を区別する言語があることが報告されています。

幸い、エスペラントには母音が五つしかありません。

これは、母音が多いのは不幸な事だと言つてゐるに等しい。母音の多寡で幸不幸が決るなどと云ふ、馬鹿な話はない。後藤氏の認識は、間違つてゐる。

多くの日本語話者にとっては、例えば、rとlの区別が難しく感じられるかもしれません。しかし、世界の言語の中では、r と l の区別をする言語の方が普通なのです。ヒトは、ホモ・サピエンスという一つの種ですから、人種や民族が違うからといって体のつくりに解剖学的な違いがあるわけではありません。日本人だから発音できない音というものはないのです。練習や慣れで克服することは十分に可能です。

「同じ人間」ならば、如何なる事でも練習や慣れで克服出來るだらうか。後藤氏は、練習や慣れで、オリンピック選手になれるだらうか。

幼時からrとlを區別しない日本語の社會で育つた日本人は、中學生になつて英語を習ふ際、rとlの區別を附ける事が出來ずに苦勞する。子供の頃に身に着けた音韻とは異る音韻を人間は簡單に學習し得ない──これは言語學の常識である。

言語は、口や舌、鼻と云つた器官だけで生成されるものではない。或音を發するのに、口や舌が勝手に動く譯ではない。口や舌を動かす指示を出すのは腦である。腦も、それ自體が指示を出せる譯ではない。口や舌を動かすやり方を、腦は知つてゐなければならない。

言換へれば、斯る手續きを踏んだ結果として現れるのが「音聲言語」である。「音聲言語」は、言語活動の一部分に過ぎない。そして、斯る(腦や神經に於る)手續きを行ふ訓練は、幼時になされる。大人になつてからの練習や慣れでは、母國語以外の言語に於る音韻を習得する事は不可能である。

克服することは十分に可能、と言へば何でも克服可能となるだらうか。さうではあるまい。後藤氏はいまだに言靈を信仰してゐるのではないか――とすら、私には思はれる。そもそも、rとlを區別するのが普通である、と言つたところで、rとlを區別しない日本語が存在するのは事實である。そして、言語の價値は、多數であるか、少數であるかによつては決らない。

附記

言語過程説とソシュールの「ラング」

時枝誠記はソシュールの「ラング」を「ランガージュ」と取違へたと非難されたが、後藤氏はその「取違へ」をやらかしてゐないか。そして、この手の「取違へ」をしたのは、言語過程説の側ではなく、寧ろソシュール學派の方ではなかつたか。さう考へると、時枝氏は「誤るべくして誤つた」のではないか。

改稿

ここでかなり非道い事を書いてゐるにもかかはらず、後藤さんが「言葉 言葉 言葉」の關聯サイトを見て下さつてゐる事に氣附きました。申し譯ない氣がしたので、言過ぎと思はれる部分(罵詈雜言)を削りました。