制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2007-10-15

桑原武夫『みんなの日本語――小泉博士の所説について――』

『第二芸術』について

データ

『第二芸術』
桑原武夫著
昭和51年6月30日第1刷発行
講談社・講談社学術文庫

目次

『みんなの日本語――小泉博士の所説について――』

「文藝春秋」昭和二十八年四月號に掲載。小泉信三「日本語」に對する批判の文章であるが、當時桑原が行なつてゐた「文化的ナショナリズム」批判の文章の一つと看做し得る。

豫め斷わつておくが、桑原は、表音主義者ではない。飽くまで漸進主義の立場から、國字改良論の精神を擁護してゐるに過ぎない。「みんなの日本語」は、桑原が「穩健」な「漸進主義」の立場から、國字改良論の精神を擁護した論文である。論調は國字改良論擁護と正統表記非難の典型的なパターンを示してゐる。

これらの問題について、福田恆存が「『國語改良論』に再考をうながす」以下の文章で反論を試みてゐる。幾つかの論點はあるが、桑原等の主張に對する一番重要な反論についてのみ、ここでは採り上げる。

桑原は、むつかしい日本語の例として「てふてふ」「ゑふ」「をんな」を採上げてゐる。これに對して福田は以下の問題點を指摘してゐる。

漢字のかながきは、かなづかひではない、と福田は言ひ切つてゐる。そして、現實に字音假名遣が正しく行はれてゐないのは、漢字を用ゐるからであり、其處に何の不思議もない事を指摘してゐる。

一方、活用語の語尾變化のかなづかひの問題であるが、これは寧ろ用言・體言に附く附屬語のかなづかひの問題に話を一般化する事が出來る。即ち、「は」「へ」「を」のやうな助詞に認められるかなづかひを、「行かない」「行かう」のやうな用言の活用語尾においても認めるべきである、と云ふ話である。この問題については、現にあなたが御覽になつてゐるウェブサイト「言葉 言葉 言葉」で積極的に採上げて論じてゐるので、是非ともそれらを御讀み戴きたい。


「みんなの日本語」で、桑原は、結論として、今回の国語改良論は、その手続きに若干の不備があったにせよ、その方向は極めて正しいものである。と斷定してゐる。

もちろん人間の仕事である以上、完全とはいえぬから、当用漢字の増減など改むべきは改めねばならないが、これを旧にかえしていたずらに混乱をまねくことは必ず避けねばならぬ、というのが私の結論である。

茲で、桑原は「いたずらに混乱をまねく」と云ふ形容の仕方をしてゐる。これでは「いたずらに」と云ふ事が全ての人に承認された事であるかのやうに思はれてしまふ。これは如何なものか。

形容句の限定的用法が、無意識に行はれるレッテル貼りである場合、導き出される結論は、非常に偏つたものになる。だから言葉の修飾の仕方には注意が必要なのである。結果として桑原の結論は問題があるものになつてしまつてゐるのだが、福田恆存が指摘してゐるやうに、この桑原の主張はそのまま通用してしまつたのであつた。

現代の日本人は先入見に基いた思考をするから、この種の問題のある議論を當り前のものとして受容れがちである。