制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2004-10-11
改訂
2013-01-21

三上章の句讀法に關する考へとくろしお出版

概要

三上章『現代語法序説』(くろしお出版)より

句読法は具体的なオルトグラフィに即して考えるか、またはオルトグラフィと相関的に論じるかすべきものだろう。我々の場合次の三つのどれかを選ばなければならない。

  1. 漢字仮名交りの詰書(ツメガキ)
  2. ロオマ字の分書(ワケガキ)
  3. 新文字の創作

三は句読法の制定と平行してアルトラ・ロオマ字なり二十一世紀的諺文なりを創案することであって、けだし閑人の閑事業であろう。閑事業であって実を結びそうにはないが、その代り副産物として言葉や文法に関する意外な新発見を伴わないとも言えない。閑人におすゝめしておきたい。

一の仮名交り文はどうか。私は絶望的である。桑原武夫氏も、句読法がデタラメであることを見本で示した後に、次のように言っておられる。

今の日本語は、音声の連続として一つの文章を幾通りにも書ける。そしてどれが正しいか、決定する規準は主観と流行以外にない。句読点の打ち方も何の規則もない。アテ字はいかぬというが、以上のようなことについて決定する規則がない以上、日本語はすべてアテ字だということではないか。そういうことは日本語以外の文明語にはないだろ、それでは真の文学教育は成立しがたい。(教育五十二年二月)

この意見に私の絶望をつけ加えて言えば、現行のオルトグラフィのまゝでは真の文学教育は断念するより仕方がないのである。

送り仮名だけでも完全な行詰りである。根本が無理だから原則の立てようがない。原則にならぬ原則が立てられるだけである。つまり漢字毎に一々個別に送り方を約束して行くことである。私のようにその経験に乏しい者の書く文章は、この一冊の中でもあちこちで送り仮名が不統一になるのを避けられない。後から一々手を入れて統一するというのも、原則なしであってみれば思いのほかわずらわしい。不統一の不体裁を追々直そうとは心がけてはいるが、差当っては横着ながら、送り仮名や送仮名にはあまり神経を使わないことにする。

送り仮名さえ正しく解決できないような文字に対して、どうして合理的な句読法が制定できよう。自然、二のロオマ字を前提として考えて行くほかはない。たとい準閑人の準閑事業に終ろうとも。

桑原氏は、日本語では現状、表記の原則がなく、音聲言語を紙の上に寫す時、幾つもの異る形で表現出來てしまふ、それは困つた事だ、と述べてゐる。

三上氏は、桑原氏の見解に同意し、さらに附加へて、かう云ふ樣々な形で表記がある場合、文学教育は不可能である、と斷定してゐる。そして、音聲言語を紙の上に寫す文字が不完全であるのだから、句讀法の確立も不可能である、と述べる。

三上氏の文字言語に關する見解の問題

音聲言語のみを言語の本質と見る素朴な言語觀

三上氏は同書で、動詞の活用に關聯して、動詞の語幹はローマ字で書かなければ正確に示す事が出來ない、と指摘してゐる。

言語學の通説である「音聲言語が言語の本質」と云ふ觀念を、三上氏は大前提として受容れてゐるやうに思はれる。そして、「音聲言語を忠實に紙の上で再現する事が文字言語の存在意義である」と考へてゐるやうである。さうでなければ、「文字言語」が音聲言語を忠實に寫し得ない日本語の表記に、三上氏が絶望する訣がない。

が、橋本進吉が指摘したやうに、音聲言語を忠實に寫すのは發音記號の類ひであり、文字ではない。文字は文字で合理的に體系化をはかる事が出來るし、さうすべきである。

表記における曖昧さを拒絶する問題

佐久間鼎氏が本書に「序」を書いて、三上氏を賞讃して、次のやうに述べてゐる。

事がらの理解に当って、一刀両断に断ちきれ、わりきれるような論理的明快さを求めたがるのは、人情の自然でしょう。それは、客観的事象の研究に従事する人たちにとっても根づよい誘惑となるもので、それにまかせて押し切ろうとすると、とかく事がらのさながらの面目をゆがめてかえりみないような任意性をゆるすことにもなり、ありのまゝの事理をすなおに受け入れるのを妨げるようにもなります。たとえば定型による分類などに、こうした誘惑からの手ごころが加わると、個別的事実をむりにでも一たん立てたワクの中へはめこんで、割り切ったつもりになりがちです。実際には、型と型との中間に位し、型から型への推移に際してあらわれる移行型の存立を容認しなくてはならないばあいが少くありません。「準詞」というものを立てることによって、「詞」と「辞」との両断的論法の明快さをすてゝ、むしろこくめいに事実を受け入れる立場を保つというような行き方は、事理の鮮明にとってまさにとるべき態度とい一つべきものです。

佐久間氏の評價は妥當で、「準詞」なる品詞を立てて、曖昧な日本語の部分を叮嚀に考察した三上氏の功績は、後世の修正を必要とするにせよ、否定すべきものとは言へない。

が、同時に、文法において曖昧な部分もありのままに受容れた三上氏が、表記となると一刀両断に断ちきれ、わりきれるような論理的明快さを求めてしまふのである。日本語の表記で、それが不可能となると、途端に絶望して、ローマ字に好意を寄せてしまふのである。

送り假名にしても、統一された原則がない事に絶望を感ずる方が何うかしてゐる。現實問題として、三上氏自身、送り仮名や送仮名にはあまり神経を使わない「横着」ですませるとしてゐるが、それで十分である。そして、送り假名の問題が句讀法の問題に直結する――と言ふより、句讀法の確立の爲に送り假名や表記の問題が解決されねばならない、とする三上氏の主張は、理由にならない。

句讀法の爲に、或は文學教育の爲に、日本語の表記がある訣ではない。そもそも、「句讀法を教へるのが文學教育である」とする三上説は受容れ難い。飽くまで「日本語の現實」に即した文學教育が、眞の文學教育である。ありもしないし、本當に合理的と言へるか何うかが怪しい三上氏の所謂「合理的な表記」を前提にした教育を考へ、それが不可能だからと言つて現實の日本語を非難するのが、三上氏のやり方だが、そんなのはをかしいに決つてゐる。

『現代語法新説』における三上氏のローマ字化期待論

『現代語法新説』第十三章「句読法新案」は、句讀法の革新を叫ぶ三上氏が、句讀法のみならず表記の革新を含めて苦心して表記の原則を考へてゐる章だが、「ロオマ字化を前提して」と云ふ副題が附されてゐる。

三上氏は、「句點と讀點とだけでは不十分である」「十分であると感じてゐる人が多いだらうが、實は十分ではない」と述べる。そして、句讀法の革新によつて、分り易い文章を書く事が出來るやうになると言ひつゝ、ローマ字表記の方法まで含めて、新しい表記を考へてゐる。

文法理論に關しては、曖昧さの存在を前提とした論理的にはつきりした主張をする三上氏であるが、この句讀法と表記に關する考察に關しては、理が勝ちすぎて却つて解り難い論を展開してゐる。もつとも、文法論でも、三上氏はとんでもない處で唐突な事を言ひ出す癖はあるのだが。閑話休題。

三上章の著作を出版したくろしお出版

上で述べた通り、三上氏は日本語のローマ字化を考へてゐたのであるが、その三上氏の著作を積極的に刊行したのがくろしお出版である。

『現代語法序説』は、刀江書院から昭和二十八年六月二十八日に刊行された。この『現代語法序説』は、實際のところ、刀江書院で刊行された時點で既に評判になつてゐた模樣で、それは『現代語法新説』の金田一春彦の序文を見れば判る。

その後は、http://www.geocities.jp/niwasaburoo/bunken1.htmlを見ると、切れ目なく三上氏の本は刊行され續けてゐる。そして、『序説』も『新説』も、くろしお出版からは一九七二年に復刊されてゐる。

そのくろしお出版にゐたのが、「(株)ローマ字教育会」等に關り、ローマ字運動の活動家であつた岡野篤信氏である。

推測であるが、くろしお出版、或は岡野氏は、ローマ字に好意を持つからといつて、三上氏の著作を出版したのであらう。が、それ自體は特に問題とは言へない。ただ、ローマ字主義である事をくろしお出版が餘りはつきり言はないのは如何なものか。

賣れない本でも著者が認められるまで地道に出し續ける出版社としてくろしお出版が評價されてゐる例もある。

しかし、收益をあげる事よりも、信奉するイデオロギーの實現を目指してゐる人物による、「手段としての出版社」であるくろしお出版を、そのイデオロギーから離れた見方で、高く評價してしまふのは如何なものか。

もつとも、くろしお出版の刊行物の奧附を見れば、KakiteとかHanmotoとかいつた「いかにも」な記述があり、「判る人には判る」のだが。

參考