松坂は「はじめに」で、既に實施された國字改革に對する立場を分類して、以下のやうに述べてゐる。
(国語)論争は、一般に、改革論と保守論の二つに大きく分類されている。改革論は、当用漢字と現代かなづかいを二本の柱とする現在の国語政策を支持するという点では一致するが、これ以上の改革については反対もしくは意見保留という論者もあるし、今後もっと改革の歩みを進めていくべきだという論者もある。今後もっと改めるべきだという論は、さらに、カナモジ論・ローマ字論・漢字何百字使用論というふうに細分される。けれども、数からいえば、改革論者の多くは、前のほうの、現在の国語政策だけについての支持という人々のようである。だから、この種の論は、用語を厳格に使えば改革論というよりも、現状についての「保守論」というべきである。
これと関連して、漢字もかなづかいも戦前の状態にもどせと主張する論は、これまた用語を厳格に使えば、保守論というよりも、「復古論」というべきであろう。呼び方の問題はともかく、今日「改革論と対立している議論の主勢力を占めているのは、この種の主張なのだということは注意しなければならない。一般に、無雑作に「保守論」と呼ばれているけれども、それは決して、戦後の現状を保持しようとする主張なのではない。
呼び方の問題はともかく
と言つてゐるが、松坂はこの「復古」と云ふ概念に大變惡い意味があるとして、その後の話を進めてゐる。「おわりに」で松坂は以下のやうに書いてゐる。
昨今は復古調ばやりである。趣味生活での復古調は問題とするに当たらない。国語国字にも趣味としての方面がある。漢詩をものすることも、たんざくに万葉ガナを並べることも、いっこうさしつかえない。けれども、国語国字の第一義は、知識や情報や意見を、国民みんなが自由に与えあうことである。
「はじめに」における分類上の立場としての「復古派」と、「おわりに」における「昨今流行りの復古調」とは、「復古」と云ふ文字がたまたま一致するだけで、概念としては全く別のものである。このやうに語がたまたま一致するだけの概念を同一視する事を松坂は本書第十一章「橋本新吉氏の『表語主義』」の項で非難してゐる。また、この「おわりに」でも、國字問題の論争に加わる人々へも希望したいことがら
として、第三は、論理を正しく運ぶことである。論理の乱れている議論は、反論するのにも、いたずらに論理の追求に手間どり、読者にもめいわくをかける。用語を正しく使うことも、これに関連して大事だと思う。
と言つてゐる。何うしてさう言ふ松坂が、「復古」と云ふ語に關しては、かうも曖昧な用ゐ方をしてしまつたのだらう。
斯うした、讀者に豫斷を與へるやうな語を、客觀的な語の間にそつと插入する松坂のやり方は、松坂流に言へば「コトバの手品」と云ふ事にならう。
この種の、「用語の正確さ」を論じつゝ、松坂にとつての敵である「復古派」の用語の不正確さを松坂は頻りに言立てる。だが、さう云ふ松坂の「嚴密主義」は、敵を愚か者に見せかけようとする爲にする議論でしかない。松坂は、その用語が不正確であると攻撃しながら福田恆存等「復古派」からの批判に反論してゐる。しかし、松坂の攻撃は皆、見苦しい言ひ訣を並べ立ててゐるに過ぎない。
松坂の議論は、當人の言葉に反して、實に囘りくどくややこしい代物で――と言ふより、國字改革を支持する勢力に樣々の立場があるにもかかはらず、松坂は「現状維持派」も「推進派」も一緒くたにして全て身方として扱ひ、改革反對派の批判にまとめて答へつゝ、一方自分は「現状維持派」でなく「改革推進派」であるとして立場を遣ひ分けてゐる。この爲、松坂の「反論」は極めてややこしい事になつてゐる。
福田氏は『私の國語教室』の末尾で「追記」として私の非
があつたと明言してゐるが、それは表音主義の限界を知つてゐる人々と表音主義を更に徹底せよと叫ぶ人々が「國語改革派」の中で同居してゐる爲に生じた「誤」であつた。「國字改革派」は樣々な立場の寄合所帶であり、その中にあつて或論者は、自分自身と、自分以外の「同じ改革派」の論者の立場を遣ひ分けつゝ、改革反對派に「反論」を行なつてゐる。この事が改革批判を困難にしてゐるのである。
ところで、單なる分類としての國字論爭における「保守派」と、政治的な立場としての「保守主義者」とを混同して、自らの立場を正當化しようとした人物に、西部邁がゐる。西部は、戰後生れの世代の立場から、實施された國字改革によつて出現した「新しい表記」を「保守」したいと考へ、さらに、今のやうな状況ならば「現實主義者」の福田恆存氏も自分と同じ立場をとるだらう、と公言する。しかし、松坂が正確に述べたやうに、西部の「保守派」としての立場は、福田氏の「復古派」としての立場と對立するものである。そもそも福田氏は現實主義者ではなく、理想の存在をも現實の一部として認める二元論者である。
表音主義者は、技術の進歩に伴ひ漢字が機械で扱へるやうになると豫測出來なかつた。松坂もその例外ではない。
本書の第九章で松坂は宇野精一を批判して、以下のやうに述べてゐる。「同音語問題解決の条件」
同音語の問題の解決のためには、漢字を引退させるということが基本的な条件になる。これに反論するなら、漢字を使っていても同音語の間題は解決できるということを証明しなければならない。宇野精一氏は、同音語の問題についてではないが、こう言っている。
《引用》(上略)国語改革に反対する文学者に対して、国語は文学の為だけにあるのではない、などといふ人達は、その一言だけでも国語問題を論ずる資格のないことを暴露したもので、私は逆に国語は事務能率などの為にあるのではないと申したい。否むしろ通信方法その他の進歩の如何によっては、漢字を使った方が、事務能率にとっても都合がよい、.といふことにならぬとも限らないと思ふものである。――
- 『国文学』昭36・7月臨時増刊「漢字の問題点」・宇野精一
性能の高い通信方法で、漢字を使うことのできるものとしては、電送写真と、漢字テレタイプをあげることができる。けれども、電送写真は、文字を主とする通信には、ふつう利用されない。引きあわないからである。どうしても漢字を示さなければならない事情のあるときに、やむをえず電送写真を使うということならある。また、漢字テレタイプは、一般に「漢テレ」と略称されているが、これまたカナやローマ字のテレタイプとちがって非常に高価であり、操作も複雑であって、新聞関係以外には使われていない。新聞は、そうじた不利益をあえてしのんでも、漢字まじりの新聞記事を遠い地方から送らせ、それを自動的に組版する必要があるから、やむをえず利用しているのである。宇野氏の「通信方法その他の進歩の如何によっては、漢字を使った方が、事務能率にとっても都合がよい、といふことにならぬとも限らないと思ふものである。」という意見は、どういうものか。かりに漢字の機械が進歩しても、そのあいだに、カナやローマ字の機械は世界全体の研究の積み重ね方式によって、より急速に進歩するというのが、これまでの事実である。これからも、これは原則だと考えるのが妥当ではないか。
なんのアテもないのに、「都合がよい、といふことにならぬとも限らない」と、そら頼みして国語政策を立てるのは無責任ではないか。かりに、それが期待できるとしても、声による通信をどうするか。電話やラジオ等々の伝達方法において、漢字を見なければ理解できない同音語がさしつかえを来たしているという問題をどうするか。
現在、インターネットを利用してゐる全ての日本人は、漢字を含むデータをネットワーク越しにやりとりする事が極めて簡單に出來る事を知つてゐる。勿論、斯うした現在の状況を過去の人間が豫測出來なかつたとしてもそれは仕方がない。
しかし、技術の進歩を「改革派」の人間が信用せず、「復古派」の人間が信じてゐたのである。過去を否定する「改革派」が未來の進歩を信じてゐない一方、過去との繋がりを主張する「復古派」が實は未來の進歩を信じてゐた――この事實は強調しておく必要がある。
結果として「改革派」の豫測が外れた事は、彼等「改革派」の主張に誤が含まれてゐる可能性が高い事を示唆する。未だに國字改革を信奉する一派の中には、漢字を使へるやうにしてしまつたテクノロジーの進化を呪ふ向きもあるやうだが、何の反省もせず、自らの目的に都合の良いものだけを禮讚し、不都合なものを攻撃するその態度は傲慢だと言ふ事が出來よう。そして、さう云ふ傲慢さは、松坂が既に論敵に對して剥き出しにしてゐたのである。松坂のなんのアテもないのに
云々の非難、今となつては何ともみつともないとしか評しやうが無い。さうだらう、松坂の見通しこそ、根據の無い、ただただ後ろ向きなだけのもので、無責任なものだつた、と云ふ事が、今、現に證明されてしまつたのだから。
しかし、このやうに、相手の言つてゐる事を「絶對の眞理でない」と極附ける松坂のやり方、ただ相手をとつちめる事が目的でしかないのである。松坂は居丈高に反對派をやつつけるが、その「反論」、松坂らの主張が正しい、と云ふ事を證明するものにはなつてゐないのである。
第十章の見出し「漢字は、文学を成り立たせる絶対条件だろうか」――これを見ても、松坂の「反論」のパターンは判らうと言ふものである。なるほど、「絶対条件」でない、それは確かである、が、だからと言つて「絶對に漢字は要らない」とは言へない訣だ。「反論」が單なる相手の意見の相對化なら、自分自身の主張もまた所詮は相對的な正義に過ぎない事になる訣で、自説の正しさを立證した事にはならない。即ち、その「反論」は、單なる辯明・言ひ訣と、相手に對する揚げ足取りになるのである。自説の正しさを證明する意見を言はなければ、有效な反論にはならない。それが松坂には分かつてゐない。
松坂が本書で書いてゐる事は、多くの國字改革支持者が言ふ事と全く同じであり、その典型と言へる。と言ふより、本書で書かれてゐるやうな事は、改革支持者にとつては常識であり、その爲に彼等は「改革反對派は既に論破されてゐる」と信じてゐる。しかし、その「常識」が、どれもこれも詭辯であり、反對派の追求をかはす事だけが目的の言逃れである事は、強く言つておきたい。
この「常識」の中から、歴史的假名遣の「歴史的」の側面に關はるものを採上げて、批評しておかう。
出まかせのカナヅカイが広く行われた。だから歴史的假名遣は駄目で、誰でも覺えられる「現代かなづかい」の方が良い。
出まかせのカナヅカイを使つてゐるのだから、否定されるべきだと云ふ理窟になる。
カナヅカイを学び易いものに改めよという主張や運動は、明治の初期から継続されてきた。けれども、敗戦の日までは、その主張は、ほとんど実現しなかった。学者が賛否両論に分かれていたことも原因であるが、国粋勢力がつねにこの運動を押えたことが、実現できなかった、より大きい原因であった。
「現代かなづかい」は、歴史的假名遣を改訂したものでなく、全く異る原理に基いてゼロから創始したものである、と松坂は主張する。
歴史的かなづかいで「ほ」を用いる「とほい・おほい・おほきい・とほる」の類を、現代かなづかいで「とおい・おおい・おおきい・とおる」としたことは、しばしば反対論者から、「歴史的かなづかいを知らなければ書けない条項」と非難される。が、これは、この種の音韻は「かほ」の「ほ」と同様に、長音ではなくて短音の独立の音韻だという見解によったものである。この見解は議論のあるところであるが、決して歴史的かなづかいを基礎にしたものではない。
「経営」を「けいえい」と書く類のことは、字音かなづかいに従うためにこうしたものではなくて、音声の実態ではすでに「ケーエー」となっていることが通例であるとしても、音韻としてはまだ「ケイエイ」であると認めて決めたものである。改まったあいさつなどで、「ケイエイ」と発音しようとしている事実のあることは否定することができない。
これを讀むと、音韻なるもの、何とも難しいものであるよと思はされる。國民一般にとつて「とおい」その他の「お」が長音ではなくて短音の独立の音韻だ
と普通に判るものなのであらうか。どうしてか、「学びやすいもの」である筈の「現代かなづかい」が、表音主義者の説明に據れば、常に極めて難しく、學問的にも議論のある
やうな問題を含んでゐるのである。明かな矛盾だが、兔に角當座の問題について言ひ訣出來さへすればそれで問題ない、全體として整合性がなくとも「ある」と強く言張りさへすれば反論は封じられる、と表音主義者らは信じてゐるのである。或は、音韻論を理解出來ない人間は愚かもので、國字問題を論ずる資格を持たない、と考へてゐる(さう言ふ彼等表音主義者が、自分逹は知識階級でない大衆に文化を開放したのだと傲慢にも宣言してゐるのである。本書「福田恆存氏の『真理』論と『貴族主義』論」を見よ)。支離滅裂にも程があるのだが、大衆の身方のやうな顔をする知識人に限つて、人を見下す事には長けてゐるものである。が、そのやうな差別的な態度をとる事が、階級間の差別を撤廢せよと云ふ主張と矛盾する事に、なぜ氣附かないのか。矛盾等何うでも良いと考へてゐるのである。
松坂は、「復古派」の唱へる「表語主義」を潰すべく、「復古派」が據つてゐる橋本進吉博士の説の「正しい解釋」を示して見せる。もちろん、表音主義に都合の良いやうに、橋本博士の意圖に反した解釋をでつち上げてゐるのであり、にもかかはらず恰もそれが客觀的であるかのやうに裝つてゐるので松坂は卑怯なのである。
「國語の表音符號と假名遣」を引用して「表語主義」の内容を説明した松坂は、續いて以下のやうに述べる。
文字は意味を示す手段であり、そのためには、同じコトバが、いつも同じ文字であらわれるのが理想的であるという橋本説は、まさにそのとおりである。けれども、ここに紹介した理論を承認することが、すなわち現代かなづかいを否定する結論になると決めることは、論理の飛びこえである。「同じコトバが、いつも同じ文字であらわれる」という理想は、歴史的かなづかいと現代かなづかいとで、どちらが、その理想に、より近づくことができるか。歴史的かなづかいは、過去の文書との関連においては、「より近く」あらわせる。が、現代の人どうしの規範としては、現代かなづかいが容易に正しく守られるのに対して、歴史的かなづかいは、はるかに及ばない。また現代かなづかいによれば、過去の文書との同一性はある程度失われるとは言っても、すでに詳しく述べたように、読みとるうえには支障はない。歴史的かなづかいを現代文の規範とすることによって生ずる、現代の人どうしの間のコトバの伝達においてカナヅカイが乱れるということは、カナヅカイの理想、文字の理想からいって、重大な欠点である。……
松坂は、「理想」と云ふ事と、「理想を實現する事」とを混同してゐる。論理が飛躍してゐるのは松坂の方だ、と云ふ事である。理想に近附き得るか何うかは、今ここで論ずべき事でない。その論ずべき事でない事をわざと論じて見せるのが松坂の「手品」である。何故論ずべきでないか。理論の話だからである。理論の話をしてゐる最中に、實踐の話を持込むのは、話のすり替へである。
しかも、その實踐の話、實際に書く時の話も、松坂は自分に都合良く現實をねぢ曲げてゐる。「現代かなづかい」を、全ての國民が容易に實踐出來ると松坂は主張する。そして、歴史的假名遣を遣ふ事は――と言ふより、そもそも歴史的假名遣で書く事は出來ないから全ての國民が異る表記を使つてしまふのだと松坂は主張する。場かも休み休み言つて欲しいものだ。「現代かなづかい」を正確に使へる國民がどれだけゐるだらうか。一方、歴史的假名遣を規範とした時、それを必ずしも正確に用ゐる事が出來ないにしても、讀取る上には支障はない。實際、昭和二十年まで、特に問題なく歴史的假名遣が通用して來たのだし、現代でも正かな派同士が互ひの文章を支障なく讀んでゐる事實がある。そもそも、「現代かなづかい」を用ゐる人間が歴史的假名遣の文章を讀取るのに支障がないとすれば、歴史的假名遣を用ゐる人間が歴史的假名遣の文章を讀取るのにそれ以上の困難を覺えると考へる事は出來ない。松坂は出たら目を言つてゐる。
また、松坂は、「復古派」の橋本説の解釋は誤つてゐると極附ける。これは、今でも改革推進派が反對派の主張を抑へ込むのに用ゐる汚い手段だから、きちんと觸れておく必要がある。
また、橋本氏の用語では、「カナヅカイ」というのは、「いぬ・ゐもり・かひこ」のような、同じ語音に文字を使い分ける法ということになるので、語音に対応させる用字法は「カナヅカイ」ということができないというのである。橋本氏がそのことを論じた論文「表音的仮名遣は仮名遣にあらず」の題名は、そういう意味である。これはまた、橋本氏が現代かなづかいをどのように批判するにしても、「仮名遣にあらず」という橋本氏の用語から、国語表記法として成立しないという受け取り方をするのは、橋本説に対する誤解である。
所謂「上代特殊假名遣」と云ふものがあつて、それは我々の目には同じ語音に對して文字を遣ひ分けてゐるやうに見えるから「假名遣」と言つてゐるのだが、今は同じ語音でも當時は異る語音だつたから、正書法としての假名遣ではない。一方、定家假名遣・復古假名遣は、既に音と表記とが乖離してゐる時代に、既に同じになつた語音に對して文字の使ひ分けをする際、どの文字が正しくてどの文字が正しくないかを定める正書法としての假名遣である。斯う書けば誰でも理解出來るだらうが、假名遣と云ふものは正書法の一種である。
松坂は、假名遣は單なる「文字の遣ひわけ」の現象を指して言ふのだと主張してゐる。しかし、その遣ひ分ける際に正邪の觀念が入り込んでゐるのだから、假名遣は單なる現象ではなく價値判斷である――價値判斷であるのだから正書法の一種である。橋本博士は、飽くまで正書法としての假名遣と云ふ發想で以て「表音的假名遣は假名遣にあらず」を執筆し、表音的假名遣は正書法と云ふ意味での假名遣にはなり得ないと指摘し、跳梁跋扈する表音主義者に冷水を浴びせようとしたのであつた。「正邪の觀念に基いて文字を撰擇する」と云ふ側面を無視して單に「同じ語音に文字を使い分ける」現象として假名遣を解釋するのは、それこそ松坂の橋本説に對する誤解である――それも、表音主義に都合の良い結論を出す爲にする「誤解」である。松坂の橋本氏の「表音的仮名遣は仮名遣にあらず」という、主張をそのままの題名は、あくまで名称についての意見であって、正書法の内容についての発言なのではない
と云ふ主張は、肯定する事が出來ない。
大體、松坂は、「文字を使い分ける法」等と、餘りに氣樂に言ひ過ぎである。表音主義者に共通して言へる事だが、彼等は常に「言葉を喋るのは全く無意識の裡に完全に出來る事だ」と心から信じてゐる。話し言葉を人間はそれ自體として完全に實現する事が何時いかなる場合にも例外ナシに可能であると表音主義者は堅く信じて疑はない。言葉を用ゐる事に人間は無意識であると、表音主義者は信じてゐる。「同じ語音に文字を使い分ける」と言つても、松坂の發想において、使ひ分ける主體の人間は、全く無意識に使ひ分けてしまふのであり、「正しい」「間違つてゐる」と云ふ價値判斷は行はないのである。こんな馬鹿な話はないのであつて、人は「どちらかを選べ」と言はれれば價値判斷に基いて選ぶ。「文字を使い分ける」にしても、何かを根據にどちらが正しいかを考へて判斷する。そして、さう云ふ「正しい」の觀念を通して書き方が決定されるならば、それは正書法である。
語音に對して「正しい語の書き方」を選ぶ――この時、「正しい語の書き方」の據り所が必要になる。この「正しい語の書き方」は、語音に對する語の正しい書き方であるのだから、發音そのまゝを寫すと云ふ發想はあり得ない。人は、發音の外部の存在を據り所にして、發音に對應する語の形を決定しようとする。さう橋本博士は指摘してゐるのであつて、單に名稱が何うとか言ふ形式論を弄んでゐるのではない。ところが松坂は、形式的な話に橋本博士の論文を矮小化したいのである。價値判斷の話をされたら「復古派」の「表語主義」を否定出來なくなつて困るからである。
しかし、松坂も全く下らない「反論」をやつてゐると言はざるを得ない。「復古派」の主張を否定しても、それが即座に「保守派」或は國字改革推進派の主張が正しいと云ふ根據にはなつてゐないからだ。いや、松坂當人は完璧に「反論」をやり遂げたと思つてゐるのだらうが、言つてゐる事に穴があり過ぎる。しかし、「復古派」の主張を相對化する松坂の「反論」の仕方は、「現代かなづかい」の「利點」も歴史的假名遣の持つ利點と相對的な違ひしかない事を如實に示してゐる。松坂は、歴史的假名遣の正しさを相對化して見せてゐるのだが、そこで現はれて來る「現代かなづかい」の正しさも相對的なものでしかなくなつてしまふ。
ただ、「現代かなづかい」の正しさが相對的な正しさに過ぎなくても、松坂は困らない。松坂は、「現代かなづかい」は不完全なものだし、ただ理想に近附く爲の第一歩であると認識してゐるからである。改革の過程にあるものだから、「現代かなづかい」が完全でなくとも、松坂は一向に構はないのである。最初から松坂は、「現代かなづかい」を擁護する氣がない。ただ、「改革を止めるな」と叫び、「復古」が行はれる事を阻止出來ればそれで十分なのである。が、これでは議論にならない。「改革を止めてはならない」と言ふのは、「改革」が議論の餘地なく「正しい」と云ふ結論を既に松坂が一人で決めてしまつてゐるのである。松坂の信念に逆らふ「復古派」は、松坂にして見れば「間違つてゐるに決つてゐる」のであり、自分の信ずる理想は正しいのであつて、その理想の實現の過程で「多少の誤」「多少の問題」があつても松坂は全く氣にしないのである。