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野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
金田一京助『言靈をめぐりて』(八洲書房) ( その他文学 ) - 闇黒日記@Yahoo! - Yahoo!ブログ
2007/11/12(月) 午後 10:19
公開
2019-03-18

金田一京助『言靈をめぐりて』(八洲書房)

正字正かな論爭として史上名高い福田恆存・金田一京助の論爭のその一方の當事者、金田一先生の、戰爭中の著作。昭和十九年六月十五日に出てゐる。表題になつてゐる一聯のエッセイの他に、「大東亞新秩序の建設と新國語學」「大東亞共榮圈と國語の問題」といつた文章が收められてゐる。だから出版の許可が下りたんですな。


――とだけ言つて御終ひにしたら公正を缺く事になる。以下、目次より見出しを全て掲げておく。「日本語」「方言と原始日本語」「共同語から標準語へ」「國語の開拓者」「文法のもひとつ奧」「文學と文法」「語學の立場から」「國語史の立場から」「假名遣と發音符號」「振假名の眞價」「東北方言考」「東北辯とアイヌ語の發音」「樺桜考」「國語學の二名著」。

「大東亞共榮圈と國語の問題」は、武力戰が續く中、次の段階に來るのは文化戰である、との立場から、大東亞共榮圈の秩序確立の爲に國語の領域で如何なる貢献が出來るかを論じた小論文だ。勿論戰爭協力的なスタイルはこの時期に出た本で必ず見られるもので、ポーズであるから本質的に問題にする必要はない。が、さう云つたポーズをとりながら、大概の人が本音をバンバン言つてゐたのがこの時期の本の特色で――と言ふより、どんな本でも嘘を平然とつける人はさうさうゐない。金田一先生も、この本で、如何にも時局迎合的な態度をとりながら、きちんと持論を展開してゐる。さう云ふ意味で、この論文は大變興味深い。

南方で日本語が英佛語に取つて代る勢ひになりつゝある(勿論さう言はないと出版させて貰へないから軍に迎合してさう言つてゐる)、そんな状況に日本語は果して耐へ得るか。金田一先生は幾つかの問題を指摘する。

現代の國語は餘りに亂雜である――大丈夫、新語が續々と生まれて來ると言ひたいだけだらう、そんなのは放つておけばよろしい、駄目なものは自然に淘汰され、良いものが自然に生殘る筈である。金田一先生――或は、金田一一族の、何時もの主張である。金田一先生、一億國民を信頼できぬなら格別、これを信頼することが出來たら、國語のこの状態は、だまつて長い目で見守つてゐてよいのである。と、國粹主義者が喜びさうな事を言つてゐる。

國字問題について金田一先生は述べる、音標文字主義は誤である、一體、文字を以て、言語を書きつけるといふことは、耳に訴へる音聲を、目に訴へる文字に替へて言語表現を行ふことである。耳と目と、目的が既にちがふ故に相手の受取り方もちがふのであるから、何も一致さして強ひて耳に響く言語どほりを紙の上に書き記さねばならぬ法が無い。

ふむ。しかし正字正かな派の考へ方と金田一先生の考へ方は異る、金田一先生は斯う考へてゐる、「音聲とは違ふ音韻を書きつけるのが正しい」。音韻主義と音標文字主義とは異ると金田一先生は心から信じてゐるのだが、福田恆存は「同じだ」と指摘した。「音聲」そのまゝでさへなければ構はない――そして「現代かなづかい」は「音韻」を書表すのだから「正しいのである」と、後にさう金田一先生は主張する事になるのだが、それは後の話。しかし、「音聲とは違ふ音韻」を信じてゐる金田一先生は、漢字假名交じりと云ふ表記法は良い表記法であると認めるのである。

次いで、國字問題に關して論じて、金田一先生は「古典假名遣」と漢字について、これから日本語を學ぶ者は必ずしも最初からそれらを學ぶ必要はないと主張する。ただ、日本語に關心を持つて接しようとする熱心な人が、かなづかひや漢字を學ばうとすればそれでよいとする。

そして、字音假名遣について金田一先生は以下のやうに述べる。長くなるが引用する。

……斯樣な國語教育の下ごしらへとしては、ただ一つ、字音假名遣統一の問題が殘つてゐる。

如何に深い關心をもつて國語を學ばうとするものにも、字音假名遣までは無理である。學ばせることが無理なばかりでなく、教へることが既に無理である。なぜなら、教へる人が先づ知らなければならないのであるのに、これだけは教へる先生でも知り切れないことだからである。

尤も世上には『尋常小學校』を假名で書くことが出來なくつても、實際上には、常に漢字のみで書くから、差支が無い。その樣に、字音假名遣は、平生知らなくつても少しも差支がないから、困難をしてこれを覺え切らなくともよい、といふ論がある。併し、若し聞かれたら、何と答へるのか。覺え切らずに日常濟んでゐるのは、たまたま免れて耻無きものである。若し教習中、東洋、蝶々、明朝の類の讀みを教へて、學ぶものが、記憶の爲めにノートを取つて、振假名を施さうとして、トウかタウか、ヨウかヤウか、等々聞き返して來たら、何とするのか。免れ得て耻の無かつたものも、一度に權威を失墜してしまはなければならない。

……。

で、これは難しい問題だが、と考へる恰好をして、要するに、どうせ元々日本語に無い支那の發音を何とか日本語の音韻で表記しようと言ふのだから問題は解決しない、宣長の假字用格を墨守することはないのである、と金田一先生は述べる。

そして、かうやつて、古い衣を脱ぎ替へて、國語を大東亞共榮圈に共通語として傳播さして行くことが、文化工作の第一の仕事でなければならないと、さう金田一先生は、解つたやうな解らないやうな結論を下すのだが、解るも解らないもない、金田一先生、「とりあへず一つに決めろ、古い事に拘らず、基準は新しく決めれば良い。根據? そんなの知るか」と無責任に適當な事を言つてゐる訣だ。


が、この金田一先生の物の言ひ方、これが現代の正字正かな派の中で字音假名遣に極めて積極的に取組んでをられる高崎一郎氏の物の言ひ方とそつくりなのである。

http://homepage3.nifty.com/gimon/


――で、金田一先生の顰に倣つて俺も無責任に話を抛り出すが、字音假名遣が解らなくたつて別に氣にする事はないでせう、字音假名遣を知らないからと言つて、完璧に實踐出來ないから正字正かな派にはならない、とか、そんな妙な「完璧主義」を言ふ事はありません。俺だつて知らんし。實際、言葉なんて「使へれば良い」のであつて、現實に漢字假名交じりで書いてゐる分には困らないなら字音假名遣の事は忘れてゐて構はない。


「正しいHTML」の事ばつかり考へてゐる人にも言ひたいのだけれども、ちよつと「考へ過ぎ」は何うかと思ふ。「完璧主義」の陷穽を突いて、どうしやうもない墮落へと人を連れ去らうとする人は多いのだ。それをこそ警戒すべきだと思ふ。本質的に何が大事なのかを考へるべきであるのだが、日本人は「重箱の隅」の細かい事ばかり氣にしてその手の議論をして「愉しんでしまふ」傾向がある。金田一先生もその手のマニアの思考だか嗜好だかに落込んで、變な方向に行つてしまつた觀がある。


しかし、今の時代、「音韻」と言はれて簡單に欺される日本人は多いんだよなー。