制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2005-11-10
初出
闇黒日記2005-11-08

石黒修「國語國字問題と言語生活」について

連合軍總司令部民間情報教育部と文部省とによつてさきごろおこなわれた日本人の讀み書き調査(『國語問題論爭史』に文部省ヘ育研究所の讀み書き能力調査委員會が、昭和二十三年八月に十五歳から六十四歳までの日本人約二萬人について調査したものとある。『日本人の讀み書き能力』東京大學出版部刊)について、石黒修が雜誌「國文學 解釋と鑑賞」昭和二十六年五月號に「國語國字問題と言語生活」と云ふ文章を書いてゐる。石黒は、專門委員長としてこの調査に參與したのだが、「國語國字問題と言語生活」の中で、調査の結果を引用し、日本人の言語生活に就いて、自己の見解を披露してゐる。が、これがまた驚くほど偏つた物の見方に基いてゐて、斯くも偏向した人物の指導下に國字改革が行はれたものである事には呆れざるを得ない。餘りにも石黒の言ひ樣が非道いので紹介する。と言ふか、その爲に神保町の古本屋で百五圓も出して買つて來た。

調査の詳細については別記。

讀み書き能力調査の結果、日本人の讀み書き能力は平均點七八・三點である。事が判つた。これに就いて石黒は、正常な讀み書き能力があると認められるには、一〇〇點なければならない。と無茶苦茶なコメントを附してゐる。石黒は「漢字の書き取り」の點が惡い事を強調し、「漢字讀み」では平均八八・八點と高得點であるにもかかはらず、以上、日本人の讀み書き能力の結果が示すところによれば文盲率は低いが、日本人は不十分なというより、みじめな言語生活、ことばや文字の讀み書きをしている。等と勝手な結論を出してゐる。「漢字は一點一劃まで正確に書けなければ駄目」と云ふ惡き「嚴格主義」は、戰後の国語教育で猛威をふるひ、度々批判されたにもかかはらず、未だに脈々と受繼がれてゐるものだが、國字改革の當事者の發言に既にその兆候があつた訣である。

石黒は、漢字の書き取りの「問題」を重視し、その結果によつて、漢字、特にその書取が讀み書き能力に深刻な影響をおよぼしていることがわかつたが、これを救濟する方法として、第一に國語教育の技術の改善が考えられる。すなわち、漢字の書取に注意を拂うことが考えられる。と、一見もつともな事を言つて見せる。しかし、實際のところ、「漢字の書取」が影響を及ぼしてゐるのは「讀み書き能力」ではなくて「讀み書き能力調査の結果」である。石黒は詐欺的な論法でごまかしをやらかしてゐる。さらに石黒は、しかし、それは決して、教育的に價値のあることではなく、しかも教育技術も新しい特別なものがあるわけではない。と述べる。漢字について、「漢字の書取」を恰も大問題であるかのやうに見せかけ、其處に注目させた擧句、「其處には解決策など無いし、解決しても意味がない」事を徹底的に印象づける。「漢字の書取」に關して、誰も反論出來ない方向に石黒は話を持つて行くのである。石黒は、この「漢字の書取」の問題を突破口に、國字改革反對論を封殺しようとしてゐる。そこで、第二の提案として、文字言語そのものの改良、すなわち国語国字問題の解決、國語政策の促進をしている。

石黒のした事は、「科學的な調査結果」を、偏見に基いた目で見て、恣意的に解釋する、と云ふものだつた。最初の「調査結果」を「科學的」と稱し、その「調査結果」を言ひ訣にする事で、國字改革を「科學的」に見せかけようと云ふもの。しかし、「調査結果」を「どう解釋するか」は、愼重であらねばならなかつた。石黒の解釋は、その慎重さを缺く。それは、國字改革を正當化する「爲にする解釋」であり、最初から漢字を惡玉に仕立て上げる事を狙ひとした「解釋のやうなもの」であつた。

漢字について、國字改革當事者のやうに「完璧に讀めて、完璧に書けなければ、讀み書き能力ナシと看做す」のは誤である、「それなりに書けて、大體讀めればそれで能力はあると認めなければならない」と指摘したのは福田恆存である。福田氏の解釋の方が常識的で妥當である事は言ふまでもない。それに、福田氏の判斷は、連合軍の判斷と一致してゐる。連合軍の判斷を無視して國字改革を強行したのは「日本人の側」であつた。占領時代に日本人が連合軍に堂々と逆らつた數少い事例として國字改革を擧げて良い。が、占領軍ですら「すべきでない」として取止めた占領政策を、日本人が率先して代行した、と見ると、國字改革は恐るべき國賊的行爲であつたと言へる。

と言ふより、そもそも「漢字の書取」を調査する事が科學的に意味のあるものであるのか何うかが事前に檢討されてゐなければ、この調査は「科學的」とは言へない。「漢字の書取」で惡い點が出るだらうから、其處から「漢字は惡い」と云ふ結論は容易に出せる、よし、「漢字の書取」を調査項目に含めよう、と云ふ意圖で調査が行はれたのであれば、それは「初めに結論ありき」の「調査」であり、少しも「科學的」ではない。また、どの程度の點數を以つて「良い」「惡い」を決定するか、その根據は何か、を定めず、「百點滿點でなければ駄目」と云ふ無茶苦茶な考へ方で良し惡しを決める積りだつたのであれば、矢張り調査としては駄目である。どうも調査をやつた日本人は、最初から日本人の言語生活をみじめと見せかける意圖があつたやうに思はれる。石黒は、この「國語國字問題と言語生活」なる文章の最初の方で、調査結果を報告するに先立ち、以下のやうに述べてゐる。

一體、日本人のことばや文字を使う力、すなわち讀み書き能力は、戰前には世界で最も高いものの一つであるとされていた。それは義務教育の普及と一般的な出版物の多いことからの想定である。

しかし、それらによつて、特に教育の普及によつて、社會生活を正常に營むにたるだけの文字言語を使う能力が賦與されているかどうか、そしてその能力が社會に出ても、そのまま維持されているかという點に疑問がある。

どうも、(連合軍側は兔も角)日本人の側には、最初から「戰前の通念を打破する」意圖が「あつた」やうに思はれてならない。さう云ふ意圖があつて行はれたにもかかはらず、この時の調査は「科學的」であると石黒は言ふ。多くの場合、當事者の自畫自贊は疑つてかかつて良いものだらう。この場合もさうであらうと思ふ。

石黒の文章の續き。石黒は、戰爭後、昭和二十一年十一月に当用漢字表が制定され、現代かなづかい、當用漢字音訓表、新字體がつづいて制定されて、戰爭前にくらべて、國民の讀み書き能力は、比例的に高められたことと想像されるが、讀み書き能力調査委員會は、問題の作成にあたり、漢字、かなづかいなど、すべて戰後のものによつた成績が前述の通りであるから、もつとその方策を研究し、漸進的に、かつ徹底的な處置を講ずる必要がある。と述べる。

たとえば、文字についていえば三種類(ひらがな・カタカナ・漢字)というゼイタクなものを使つてゐる國は世界にない。その文字の數、當用漢字だけでも一八五〇、これを義務教育漢字に限つても八八一で、他の多くの文化國家の十數倍ないし數十倍である。文字の數は中國よりも少ないといえるが、その用法、讀みは音訓、呉音、漢音、唐音、慣用音、現代音などがあつて、中國人もあきれるような、使い方をしている。送りがなには基準がない。句讀法も極めてアイマイである。

日本人の言語生活を改善し、向上させるには、どうしても國語國字問題の解釋をはからなければならない。日常社會生活の向上發展を願うならば、言語生活からはじめなければならない。

こんな偏見をもつた人物が、國字改革を強行したのである。調査・統計を武器に國字改革を正當化してゐる石黒だが、屡々「數字は人を騙す」――もちろん、適切に用ゐれば統計資料は有益である。しかし、石黒は自己の偏見を正當化する爲に「數字の詐術」を利用したやうにしか、私には思はれない。

漢字制限、文字づかい改正を、言語統制や物資の統制と同一視して、これに反對している學者、著作家がある。それが自己の優越感を滿足させ、護持する手段として、ことばや文字という私有財産を擁護しようという氣持は、理解し、同情することができるけれども、ことばや文字は社會國家の、大衆の共有物である。それは人民の、人民のためのことばや文字でなければならない。

既にマルクス主義の時代は過ぎ去り、多くの人が解らなくなつてゐるだらうが、この邊、明かにマルクス主義的な言辭である(文化大革命の支那で、紅衞兵が學者・文化人を吊し上げた時には、この手の言辭が屡々見られた。反對者の動機を勝手に極附け、惡人に仕立て上げるのは、マルクス主義者に良くある事である)。虐げられた人民の解放を謳ひ、プロレタリア獨裁を高らかに宣言したソ聯は、エリートによる指導體制を確立して、却つてプロレタリアートを壓迫するやうになつた。日本でも、「ことばや文字の解放」なるプロパガンダの下に國字改革を行つた連中は、「ことばや文字を支配」する體制側に「なる」事によつて、結果として民衆を支配し、壓迫する事にはならなかつたか。

石黒は「國語國字問題と言語生活」の末尾に以下のやうに書いてゐる。

國語國字問題は、今までのように、一部の人々にまかしておくべき問題ではなく、國家にとつて、文化にとつて、重大な問題である。それは精神的物質的の生活のあらゆる面に密接な關連をもち、深大な影響をおよぼすものである。

全くその通りである。現在、國語國字問題は、一部の人々――表音主義者に全面的に「まかされて」ゐる。かうした状況は改善されねばならない。殘念ながら、表音主義者にその改善に協力して貰ふ事は出來ないだらう。彼等は、せつかく手に入れた「權力」を手放す積りなど毛頭ない。世の中が何んなに惡くならうとも、彼等は表音主義の普及を止める氣は無く、國字政策を獨占し續ける。


半世紀以上に亙つて表音主義者は「文字の專門家」「ことばのエリート」になりすまし、國字を支配して、好き放題に文字を弄つて來た。「讀み書き能力調査」は、大衆が國字改革を望んでゐる事を全く證明してゐなかつた。國字改革の當事者は、自分逹の「理想」「信念」に基いて、單なる數字を恣意的に解釋し、自己正當化を圖つて來た。今の文字コード問題、人名用漢字の問題、表外字の問題――國語の混亂――は、全て彼らの獨善的な「政治」の所爲である。私は彼ら「國字エリート」の「暴虐」な「國字支配」を否定する。國語・國字を民衆に返す事――國語の正常化を主張する者である。エリートに據る愚民政策的な國語の簡易化は、自然な國語の變化とは違ふ。國語は自然に進化する。國字改革はさう云ふ自然の進化を妨碍し、不自然な人工言語を創出する事に因つて、却つて國語を混亂に陷れ、專門外の素人の發言を不可能にした。更にさう云ふ混亂を收拾すべく、國字改革の推進派は場當り的なやつつけ仕事を行ひ、自分逹の冒した誤を糊塗しようとしてゐる。剩へ、今の問題の原因を「改革の不徹底」と極附け、更なる國字の簡略化を狙つてゐる。誤に誤を重ねようとしてゐる。全ての問題は戰後の國字改革にある。改革の誤は、改革以前に戻す事によつてのみ、訂正が可能である。ロシア革命は、七十年以上經つて、否定が行はれた。もちろん、現在のロシアには混亂が續いてゐる。しかし、だからと言つて、ソ聯時代がそのまゝ續けば現状はもつと良くなつてゐただらう等と考へる人はゐない。今、日本の國字改革が取消されても、長期に亙つて惡影響は殘るだらう――恐らく永遠に殘る。が、それでも國字改革は、誤だつたと認められ、反省されるべきである。