- 制作者(webmaster)
- 野嵜健秀(Takehide Nozaki)
- 公開
- 2004-11-21
- 改訂
- 2007-11-25
表音主義とは何か
- 表音主義とは「日本語を發音に基いて表記しよう」と云ふ國字に關する主義主義の事を言ひます。
- 「表音文字のみによつて表記すべきだ」と云ふのが第一の主張となります。當然の事ながら、それは「表意文字である漢字を廢止すべきだ」と云ふ主張になります。既存の「漢字かな交じり」の表記は、表音主義の立場からは「正しくない表記」とされ、否定されてしまひます。
- 表音主義の立場に基いた「正しい日本語の表記」は、大きく分けて、「カナモジのみによる表記」か、「ローマ字表記」か、の、どちらかになります。それ以外の主張は、皆無であるのではないらしいのですが、非常にマイナーな存在です。ただ、「カナモジのみ」「ローマ字」と一口に言つてゐますが、現實にはそれぞれ多種多樣の方式が提唱されてゐます。
- カナモジ表記にしてもローマ字表記にしても、從來の「漢語の使用」と「歴史的假名遣の使用」が「障碍」となります。その爲、表音主義者の主張は、「漢字の廢止」と「表音的仮名遣いの採用」が主な主張となります。ところが、既に漢語は日本語の基本語彙と化すほど日本語に大量に入り込んでゐます。表音主義者は「廢止する漢語を代替する語彙の撰定・創出」「漢語に依存した文體の廢止」を問題にせざるを得ず、「新しい日本語の創出」を主張せざるを得ません。
- なぜ日本語を發音に基いた表記に改めなければならないか――ですが、古くは「先進國の言語では全て表音文字が使はれてゐるから」と主張されたものですが、今では「書き言葉は話し言葉を正確に寫すべきものだから」と云つた主張に變つてゐます。「書き言葉は話し言葉の影に過ぎない」と云ふ發想が表音主義者にはありますが、これはソシュールが「言語学」を誤解して受容れた結果です。
表音主義者の所謂「表音主義の長所」
一往、表音主義者が「長所」と稱する事柄は幾つかあります――もちろん、實際のところ、それらは單純に「長所」と言切れません。一往列擧しますが、それぞれ「長所」と言ひ難い理由まで述べざるを得ません。
- 「文字の種類を減らせる」と云ふ事が「長所」として常に主張されます。文字セットは、ローマ字表記の場合、US-ASCIIで濟みますし、カナモジ表記でも百字内外の追加で足ります。慥かに「コンピュータの處理が輕くなる」事は間違ひありません。しかし、現在の高速化したCPUやネットワーク環境で、文字數の多寡がコンピュータの處理速度の極端な低下に繋がるとは必ずしも言へません。漢字假名交じりの簡潔な表記の文章の方が、データの總量では輕量となるケースが考へられます。地名・人名等、大量のデータを扱ふ場合、個別の名稱が獨特のものである必要がありますが、文字種が減ると同じ名稱のデータが増え、データベース處理に支障を來し兼ねません。
- 「現代仮名遣い」は、例へば助詞の「は」「へ」「を」を、語の意味・語の機能に基いて「は」「へ」「を」と書く、と云ふ事を原則としてゐます。これが、語意識を重視する一般の日本人の「完全な表音主義に對する抵抗感」を和らげてゐます。しかし、結果として「現代仮名遣い」は、表音主義と表意主義のダブルスタンダードに陷り、表記の體系としては破綻してゐます。これに對して、表音主義の場合、助詞もまた"wa" "e" "o" /「わ」「え」「お」と書く事になります。慥かに徹底した表音主義は「ダブルスタンダードを免れてゐる」訣で、「現代仮名遣」よりはまともである、と言へます。しかし、橋本進吉博士が指摘するやうに、「表音的な假名遣」は「假名遣でなく、發音記號である」と言ふ事が出來ます。そして、一般的な日本人の語意識は、どうもかうした徹底した表音主義を好まないやうです。
表音主義の問題點
「長所」の項で指摘した問題點は省きます。
- 從來の日本語には無い表記を採用しなければなりません。その爲、新しい表記の規則を作らなければなりません。その提唱者は別個に複數存在し、自己の方式の正當性をそれぞれ主張してゐます。結果として、現在まで、表音主義の實現の方法は複數の方式が亂立し、統一されてゐません。
- 完全な表音主義を採用した場合、發音が異ると、表記は方言ごとにてんでんばらばらとなります。結果として、表音主義的な表記による文章は、日本全國で通用するものとはならなくなります。その爲、全國で通用する表音主義を實施するには、全ての日本語の話者の發音を統一しなければならなくなります。方言を禁止しなければならなくなる訣です。逆に、話者の發音を自由にするならば、完全な表音主義に基いた表記では意思の疎通が不可能(少くとも困難)になり兼ねません。
- 「表音式の表記は讀み易いのか」と云ふ問題があります。表音主義者は「慣れれば讀める」と主張してゐます。しかし、實際には、日本語の性質からして「文字の種類を減らすと讀み易さも減少する」と考へられます。語の認識は語形の認識であり、語形の認識はパターンの認識であると言へます。パターンが區別し難い場合、認識の精度が低下します。日本語の場合、音の出現の仕方が割と決り切つてをり、良く似たパターンが連續します。漢字假名交じりの場合、文字種の多さで類似パターンの出現を防止してゐますが、文字種が少なくなるとその出現が頻發します。ローマ字文の場合、子音と母音とが必ず交互に出現する爲、見た目にも、似たパターンが連續して出現する事となります。
- 日本語では、各音節を發音するのに要する時間は一定してゐます。その爲、カナモジ表記の場合はまだ良いのですが、ローマ字の場合、母音と子音とで、音節の長さが變化してしまひます。これが、或種の讀み難さを生ずる事はあり得ます。
- 表音文字のみで表記すべき事を主張するので、當然ながら「漢語を使用しない事」が推奬されます。が、書き言葉と話し言葉とが一致する事が大前提である爲、話し言葉に於ても漢語を使用しないのが推奬されます。表記の「改良」が、日本語全體の「改良」を要請する事になります。そこまで日本語を徹底的に變化させなければならないのか、と云ふ疑問が殘ります。
- 屡々指摘される事ですが、「多數存在する同音異義語・同訓異義語が、カナモジ表記でもローマ字でも判り辛くなる」と云ふ問題があります。表音主義者は「その種の語は淘汰して、分り易くすれば良い」「日本語使用者が自覺を持つてその種の同音語を使用しないやうに努力すれば良い」と辯明しつゝ「漢字における同音語の辨別は難しい」と盛んに言立てるのですが、表音主義の致命的な問題を誤魔化してゐると言つて良いでせう。表音主義者は、「日本語の表記の改良」を行ふ爲に、「日本語の改造」を主張せざるを得ないのです。「表記の爲に語彙を變化させる」と云ふ表音主義者の主張は、「日本語を表記と語彙との兩面から改造する」と云ふ事ですが、はつきり言へば「表音主義は日本語を日本語でなくしてしまはうと云ふ主義である」と言つて良いものです。慥かに言語は自然に變化します――「自然に發展する」と言つても良いでせう。さう云ふ「自然な變化」は「許す」「許さない」とは關係なく、起つてしまふもので、否定のしやうがありません。けれども「自然な變化」と「人爲的な變化」とは嚴密に區別される必要があります。「人工的に言語を改造する事は果して許されるのか」と云ふ問題は、愼重に檢討されるべき事です。表音主義者は「不便な日本語を改良するのは望ましい事だ・當り前の事だ」と考へます。しかしながら、彼等の言ふ「不便」は屡々「表記を表音化するのに都合が惡い」と云ふだけの事でしかありません。自分に都合良く言語を變へようと言ふのです。「現在の日本語の性質を活かした形で改良する」事の檢討拔きに「一氣に日本語を表音化せよ」と主張する表音主義者の主張は、餘りにも性急なものであると言へます。
表音主義は、日本語の表記の體系を完全に破壞します。また、書き言葉に依存して發展してきた日本語の體系そのものを根本的に崩潰させます。
そもそも、日本語を表音化して簡易化するくらゐなら、日本語の使用を止めて、英語なりフランス語なりを採用すれば、問題は一擧に解決します。なぜ表音主義者は「日本語」に固執するのか、不思議です。案外、彼等は國粹主義から拔出し切れてゐないのかも知れません。