制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
闇黒日記平成十六年十月六日
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公開
2008-12-01
改訂
2021-01-24

こばやし ひでお『言語学通論 改定第5版』


國字改革が實施されて、「當用漢字」と「現代かなづかい」が制定された事に就いて、當時の表音主義者の心理が讀取れる文獻である。こばやし氏は、既存の日本語の表記が破壞された事それ自體は歡迎してゐる。この本でも、基本的に國字改革によつて定められた表記を採用するとこばやし氏は宣言してゐる。

こばやし ひでお曰。

第二に、昨年のあき文部省の發表した當用漢字と現代かなづかいとを,わたしわこの本で採用した.漢字制限の方面でわ,多少の不便を感じながらも,極限のワクをはずさないよ〜に努めた.たゞし引用文わ除外した.かなづかいについてわ,文部省案わ不徹底であり,かえって不便なので,發音式をいっそ〜擴大して,テニヲハの「は」と「へ」を,それぞれ「わ」と「え」とし(「を」のみわ,ワカチガキ式をとらぬかぎり,當分そのままにしておく方が便利なので,「お」とわ改めない),長音わ記號「〜」をもって現わすことにした.

以上、表記は原文のまゝ。

奇妙奇天烈な表記だが、表音主義者・こばやし氏の心理がよく表はれてゐる。

漢字制限が必ずしも便利でない事實を端なくもこばやし氏は認めてゐる。それでも「極限のワク」を「守る」と云ふのは、まあ、普通に考へると解せない事だが、兎にも角にも既存の表記が破壞されたのを喜び、漢字を使はざるを得ない現状であつても、「改革」が到達した地點からは意地でも引くまいと思つたのだらう。

氏に限らず、表音主義者は、漢字について無頓着であつた。漢字制限は漢字廢止への一階梯である。漢字は何れ廢止される、ただ現状は「ある」のだから、仕方なく使はざるを得ない。だから、表音主義者にとつて漢字の遣ひ方なんて何うでもよかつたのだ。

本音では、漢字なんてさつさと廢止して、表音文字だけで文章を綴りたい――それが表音主義者の考へだつた。こばやし氏もさう考へてゐたであらう事は推測出來る。

けれども、漢字は「現状」使はないと仕方がない。そこでこの時點でもこばやし氏は漢字假名交じりで著作を綴つた。實際に漢字を使はうとすると、もちろん自由に使へた方がいいに決つてゐる。けれども、取敢ず「改革」が達成した漢字の制限は、表音主義者は守りたかつたのである。「改革」から一歩でも退いて、より澤山漢字を使ふなんて事は、幾ら便利でも、表音主義者には出來なかつた。

一方で、「表音文字であるかな」の使ひ方については、表音主義の徹底を圖る餘地があつた。かなづかひについては、「改革」が「不徹底」であると言つて、より急進的な立場をとつても、表音主義者としての「良心」は痛まない。そこでこばやし氏は、獨自の方式を提唱し、のみならず實踐したのだ。こばやし氏は、「改革」で制定された、妥協的な「現代かなづかい」を非難し、より急進的な表音的表記を採用して、表音主義者として得意だつたに違ひない。

――だが、結果として出現する事になつたこのこばやし氏の表記は、「俺表記」にほかならないものだ。こばやし氏は、こんなものでも、自分が「正しい日本語」を使つてゐる積りだつたらしいが、こんな表記は、他の人が誰も使つてゐない。こばやし氏のこの表記は、こばやし氏が獨自に定義した、こばやし氏獨特の表記である。

「發音通り」と言ひながら、發音を記録するのにはルールが必要となる。そのルールは案外簡單に決まらない。ローマ字でもさうだが、「表音的かなづかい」もまた提唱者によつて異る形態のものになつてしまふ。發音通りと理念的には簡單に言へるものの、現實の運用では困難が非常に多い――表音主義の重大な問題だ。