作家の中には「新かな使い」と「当用漢字」のせいで、微妙な表現上のニュアンスが失われたと嘆いたりしているものもいるようだが、そんなニュアンスは、文学の本質とはなんの関係もないものだと、ぼくは考えている。もともと散文の精神とは、そうした言いまわしのニュアンスなどを拒否したところに成立ったものではなかったか。
- 安部公房・別巻88「文字」より
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安部の發言は、一見「御尤も」な主張のやうな印象を與へる。新字新かなの散文が即惡文であると云ふ譯ではないから、多くの讀者が安部の主張に頷くだらう。
しかし、根本的なところで、安部は勘違ひをしてゐると思ふ。そもそもニュアンス
なる曖昧な言ひ方自體が微妙な表現上のニュアンス
にほかならないではないか。安部の言ふ微妙な表現上のニュアンス
とは、具體的には一體全體どのやうなものか。
散文の精神
は單に微妙な表現上のニュアンス
を排さうとする精神なのではない。散文は飽くまで、韻文の持つ論理的な曖昧さを排さうとするところに成立してゐる。筆者の意圖をより明確かつ正確に讀者に傳へようとする事が散文の精神
にほかならない。換言せば、曖昧な思想を明晰なものとする事が、散文の目的である。
曖昧な思想を曖昧なまま表現し、讀者にそれを「感ずる」樂しみを與へるのが韻文の目的である。微妙な表現上のニュアンス
が要請されるのは散文ではなく寧ろ韻文である。安部は韻文の問題を散文の問題にすり替へて論じてゐる。或は、さう云ふすり替へをすり替へと斬つて捨てず、そのすり替へに乘じて議論を自分に都合良く持つて行つてゐるやうに思はれる。
新字新かなは發音に忠實な表記であると云ふだけのものであり(實際には不徹底)、論理的に正確な或は明確な表現手段として設計・策定されたものではない。その從ふ處の「發音」ですら、正確な發音ではなく、現代の日本人が認識する音韻と云ふ、極めて不正確なものでしかない。
正字正かなは、過去から現在までの表記に互換性を持たせる事──時代によつて変化する不安定な發音の記録ではなく、恒久的な表記の保存──を目指したものである。即ち筆者の意圖を正確に記録に殘し、後世に傳へる爲の手段として、正字正かなは作られてゐる。
言換へれば、新字新かなは、「意味の傳達」「論理的な正確さ・明晰さ」と云ふ點で、正字正かなに劣つてゐる。ならば、正字正かなの方が新字新かなよりも「散文の精神」に適つてゐる──さう私は考へる。
新字新かなによつて失はれたものは、微妙な表現上のニュアンス
ではなく、「正確で明確な表現」そのものである。