優能婦人を標準とせよ

 現在の婦人は、その最も聰明であると云はれる少數の婦人を除けば、悉くたわいもない凡庸の婦人である。私はこの事實を決して見逃しては居ない。寧ろ何人よりもこの事實を自分自身の事として確實に反省して居る積りである。けれども、この事實があるに由つて、大多數の婦人を在來の儘の屈從的位地に置かうとする議論には同意することが出來ない。

 例へば學校に於て、同級生の中に、少數の優能者と多數の平能者とがあるのは免れない事實である。さればと云つて、優能者は特例であるに由つて之を無視し、多數の状態である平能者を標準として教育しようとすることは教育の威力を卑下して、人間の向上を悲觀的に解釋することである。私は反對に、少數の優能者を標準として大多數の平能者を出來るだけ其標準に近づけるやうに教育すべきものであると考へて居る。惡貨が榮えて居るからと云つて金貨本位を廢める理由にはならないと同じである。

 男子が彼ら自身の地位にまで婦人を引上げようとすることを拒むばかりでなく、婦人の中の優秀な婦人の地位にまでも婦人の向上する機會と自由とを拒むのは決して寛洪な處置と云はれない。