夏の旅

 高き梢に蝉じじと啼き初めて、砂まじりの青白き草いきれ南風に吹き煽られ、素足の裏を燒き焦す許り熱き日影縁より座敷にさし入れば、行き屆きたる夏の威壓の抗ひ難さよ。空仰ぎて一雨欲しと歎つも癡がましく、煽風器にてもあらばと云へど、他人の寶を數ふるにひとし、氷も喉元すぐれば熱さを増しぬ。團扇は見る目涼しけれど、勞力に伴ふ風の現金さ、屡〃しなば手もだるかるべし。遠からぬ電車の、軌道にきしみてキイと鳴るに街行く群集の齒軋を集めたる如く、門通る廣目屋の樂隊の騷音は熱を撒き行く如し。膝に寢たる子を寢臺に移せば、その下なる暗き陰より蚊の唸り立つも憎し。蠅も多けれど藪蚊の晝出づる家なれば枕蚊帳被せ置きて、われは湯殿に入り、水道を捻りて思ふさま水を浴びぬ。叩きを流るる水を、鹽原の鹽の湯の溪とも思ひ做すなり。

 この季節に人は皆旅せん事を思ふ。狹き家に床低くして濕地の上に古畳敷きて起臥すと異らぬ我等の階級にてこそ然思はめ、高く廣き家と森の如き庭園との中に住める人達の、わざわざ不便なる田舎へ暑を避けずともと思へど、戀と名利と旅とは貴賤の別なき欲なるべし。夏は遊ぶべきものと西の國の人は定むと云へど、常に半ば遊び居る樣なる此國の人には、其言葉いよいよ惰氣を助長やせん。さりとて「滅却心頭火亦涼」など云ふ境地は我等の知らぬ事、とても變化を好む性持つ人が折々異る刺激に觸れて、疲れたる身を洗ひ、倦みし心を新しくせんとならば、彌が上に働きて彌が上に遊べと言はま欲し。

 豫てより此夏は何處に遊ばん、かの山の温泉、その海邊と指折り居し人の必ず旅に出でしは尠し。人ばかり羨ませて罪なる事と思へど、其人自身は準備の樂しみに醉ひて、さて實行せんとする頃には心疲れて慵くなるにや。又北海道にせんなど言ひし人の近き箱根などへ、一二泊掛に行きて繪葉書寄越したるは、想ひの外にて興なし、すべて人などに前觸れせで行くぞよき。九月の中頃などに訪れ來る人の暫く無沙汰しつと詫びて、二月ほど駿州の靜浦に在りしと語るは心にくきまで奧ゆかし。後より其席に加はりし高等學校の生徒の、僕は日本アルプスの一部を探りしなど云ひて、袂より赤石山の石の赤きを土産に取出すも雄々しく、「人從蜀中歸。衣帶棧道雨」とも言ふべし。

 名高き避暑地は人多ければうるさし、其れも初めて行く地ならば珍らかに覺ゆる節もあれど、曾遊の山水は全て再せぬこそ思出深けれ、大方は見劣りするが口惜し。われは雨女なり。夏の旅にも他の季節の旅にも濡れそぼたぬは稀にて、嵐山にて逢ひし夕立には中流に出でし我屋形船と舞姫を載せし彼方の船と二隻、千鳥が淵の精に魅入られしか、少時進むも退くも叶はでいざよひき。赤木山の裾野三里が間小止もなく、投槍の如く横に降りし白き強雨の凄じさ。男づれ五人、女は子守とわれと三人、幾筋の路の黒き大蛇の群と覺ゆる俄の濁流に膝を沒し、幾度か底の石塊を踏み逸してよろめき乍ら吹き折られし傘を杖に進めば、子守等は倒れて流さるるもあり。良人は三歳になる長男を、われは二男を細紐にて確と負ひぬ。流さるる子守をあれあれと叫べど、三間先に隔たりし男づれは雨に曇りて姿も見えず、聲も屆かぬに、良人の追ひ下りて子守を救ひ、「手を取り合へ、離れて歩むな、あと一里ぞ、もう大丈夫なり」など勵せば、脊なる長男の、濡れ通りたる合羽の下より、「もう大丈夫、もう大丈夫」と元氣好き聲に言ひ續けたる、今思ひ出づるにも目の濕みぬ。弱き子供等を惡しき山路に伴ひぬ、一人は山に著くも待たで死ぬべしと思ふに地獄道を辿る心地に悲しく、何の報に下さるる禍ひぞなど思ふ。麓の箕輪に行著く少し前より二人の子は冷たくなりて物も言はず、山にさし掛かりて小降となり、地獄谷にては月も出でぬ。頂なる大沼の宿に著きしは午後九時半、皆濡れし衣を脱ぎて湯に入る中に、夫とわれとは二人の子の衣を替へ毛布に卷きて、大きなる火鉢の山と盛りたる炭火の前に居さす。我等も衣を替へんとするに柳行李の中は大方濡れたり、命冥加の好かりし子等は次の朝より常の如くなりて親の心を喜ばせぬ。さて此山の涼しかりしこと其大雨の大難と共に永く忘れ難し。内にあれば大きなる火鉢幾つも取圍み、鈍銀の如き幹したる白樺を洩るゝ日影秋の樣にて汗を知らず、總て骨も淨まる心地とは斯かる人氣少き山の事なるべし、讀物と副食物とに事缺かずば夏を通しても留まらんをと思ひき。

 其山の小沼の方に「大さん」と呼ぶ老いし獵夫住みて、一二年續きて此處に久しく在りし高村光太郎氏を我子の樣に戀しがりき。今は如何しけん。穴居の如き小屋の前に血に染める猿の皮を干しありし事、飴色に煤光したる大土瓶より番茶を注ぎて茶受に赤砂糖を侑めし事、狼の近頃現れて牧場の子馬を狙ひ居れば、そを退治に行くとて山刀を腰にさし、銃を肩にのつそりと木陰に入り去りし事、長男の朧氣に記憶し居て今も夢の世界の譚の如く語るなり。