制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-11-09
改訂
2008-08-31

保田與重郎の主張を理解しない政治主義者

ここ數年、「保守派」「右翼」の間で急激に保田の評價が高まつてゐる。しかし、保田の政治的な傾向を、昨今の「保守派」評論家は支持してゐるに過ぎないやうに思はれる。

保田の本領が文藝に關する發言にあつた事を評價してゐる評論家は多い。しかし、その評價も形の上での事に過ぎないやうに思はれる。詳細に保田の文章を檢討し、保田の文體や「詩心」を理解しようとしてゐる評論家は少い。保田を評價する批評家の多くは文體の表面的な模倣に止まつてゐる。

桶谷秀昭や酒井兄弟は、保田の奇矯な文體を、單なる自己陶酔によるものだと勘違ひしてゐる。その結果として、彼らの文章は、論理的な飛躍が目立つ。彼等の文章は惡文と化してゐる。保田は決して惡文を書かなかつた。

保田の文章は、表面的には飛躍だらけであるやうに見える。しかし、その飛躍は「詩的」な飛躍なのであつて、ただの「論理的な飛躍」であるだけではない。保田は説得する爲の文章を書いてゐない。そこが桶谷らと違ふ。保田と桶谷等とは、文章を書く態度が決定的に異る。桶谷らは、讀者を説得する爲の文章で論理的な飛躍を平然とやらかしてゐる。それは大變拙い。


保田は「新論」で以下のやうに述べた。

正常な國語、正確な文法、民族の歴史、民族の修身を復活することは、民族當然の義務であり、自主獨立の第一歩である。憲法改正や再軍備は第二義の問題である。これらが第二義の問題であるといふことを、國民は自覺せねばならない。

今の保守派の大半は、この保田の主張を理解してゐない。だから平氣で「政治的戰略」を語り、「愚直」な正字正かな派を馬鹿にして止まないのである。


保田は、讀者に詩的感興を與へる事を最優先に考へて、「評論」を書いてゐる。よつてその文章は、詩的な文章として把握する必要がある。ところが、保守派に限らず、日本浪漫派を批判する人々にも、この邊の勘違ひを基にした非難をする例が屡々見られる。日本の評論家は、イデオロギー的な判斷は得意であるが、詩的・歴史的な見方をする事は不得手である。

「反近代の思想」に屬する思想家の文章は、表面的な讀み方で――或は「論理的な分析」で――單純に評價する事が許されない。常に歴史的な意義を考慮しながら判斷する必要がある。『西歐の沒落』にしてもD.H.ロレンスやニーチェのアンチクリストにしても、文章を表面的に見て、單純に批判したのでは、歴史的な意義を見失ふ事になる。

保田の文章もまた、歴史的意義の觀點から、或は、歴史的な文脈の中で、意義を把握し、理解しようとしなければ、誤讀するか、適正に評價できないか、のどちらかの結果に陷るだけである。