保田與重郎
- 『和泉式部私抄』
- 1999-02-08
- 『祖國正論』
- 2011-01-05
- 2017-05-21
- 『日本の心』
- 1998-xx-xx
略歴
- 明治43年〜昭和56年
- 戰前、同人誌「コギト」「日本浪曼派」を主宰。閃くやうな文體を驅使した評論を發表し、一躍「文壇の寵兒」となつた。所謂「日本浪曼派」には、中谷孝雄、龜井勝一郎、太宰治等が含まれるが、必ずしも保田と意見・態度が一致してゐた訣ではない。
- 獨逸浪漫主義からの影響が強いと本人が述べてゐる。思想面よりも文體の面で或意味強い影響を受けてをり、古典的な獨特の文體と言はれるけれども、その實彼の文體は飜譯調そのものである。
- 文學史的には、「日本の傳統への囘歸を叫び、次第に國粹主義的傾向を強めた」とされる。一時期まで、本人の文章よりも、橋川文三『日本浪曼派批判序説』等の批判によつて、保田の名は知られてゐた。
- 神道關係者の「國粹主義」が軍國主義者から反撥を受けたのと同樣、保田も軍部から相當睨まれたらしい。昭和二十年三月に徴兵で北支に派遣させられたのも、軍部の嫌がらせだつたと言はれる。
- 戰後は、「戰爭協力者」としてG.H.Qにより公職から追放された。右が支配者である時には右から、左が支配者である時には左から「迫害」を受けた訣である。止むなく地方で同人誌「祖國」や「新論」などに據り、細々と執筆を續けた。當時の保田の發言には「絶對平和論」などの主張が見られる。
- 昭和38年『現代畸人傳』を新潮に發表して中央文壇に復歸。しかし戰前の華々しい評論に比べると、戰後の文章は精彩を缺く。
- 桶谷秀昭(講談社学術文庫に『保田与重郎』が入つてゐる)や酒井兄弟(同人誌「文芸への帰還」を出してゐた)らが強い影響を受けてゐるものの、文體等の表面的な影響に留まるやうに思はれる。保田は、レトリックと象徴的な表現を好んだが、同時に、古典なり何なりに即した文章を書くやう努め、具體的なイメージを大事にした。一方、桶谷ら「信者」は、空理空論を保田の用語を以て飾り立ててゐるに過ぎない。「異常な」は保田の常套句だが、これを桶谷等が效果的に用ゐたのを見た事がない。
- 雜誌「正論」では福田和也がなぜか保田を採上げた事がある。近年、彼等「右翼」の活動によつて保田は取敢ず「復權」を果しつゝある。一方、例によつて「流行りもの」を叩くのが好きな谷沢永一が、「正論」に保田を扱き下ろす文章を載せて、「保田信者」から總好かんを食つた。ブームは一過性のもので、2008年現在、再び保田は忘れ去られようとしてゐる。
- 昭和40年代に『著作集』(南北社)、『選集』(講談社)、平成初頭に『全集』(講談社)が刊行された。その後、代表作が收められた『文庫』(新學社)が刊行された。
評價
- 保田與重郎の主張を理解しない政治主義者
- 2001-01-09
- 2008-08-31
- 著作の感想・印象
- 1999-02-08
- 2001-06-06
- 保田の文體
- 1999-10-09
- 2004-10-10
- 保田の近代精神
- 1999-10-09
- 2001-06-06
リンク
- 内部
- LCP
- 保田與重郎リンク集
- 外部
- 松岡正剛の千夜千冊『後鳥羽院』
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