山田博士は考證を重んじた國語學者である。「眞淵・契冲、宣長以來の國學の傳統に連なる最後の國學者」とも評される。
國語學・國文學・その他の山田氏の研究には、「日本文化に資する」と云ふ目的があつた。學問の傾向・文章の雰圍氣のみならず、その熱意は平田篤胤に似てゐる。篤胤が單なる學者の域を超えたアジテータ的側面を持つやうに、山田氏には國粹主義者としての側面がある。
その爲、研究には偏狹の嫌ひもあり、橋本進吉や時枝誠記からは、その點を批判されてゐる。しかし、膨大な資料を讀みこんだ上での考證は嚴密であり、また創見も多い事が指摘されてゐる。
現在も國文法の領域での研究成果は「山田文法」として認められ、重視されてゐる。現在、より普遍的な内容を持つ言語學が理論として一般化してをり、國文法と云ふ學問自體が成立しなくなつてゐるが、さうした状況下で、説明としては兔も角「實用性」の面で些か不利になりつゝある橋本文法に對して、意味論的な觀點を導入してゐる山田文法は、寧ろ再評價の對象となつてゐると言へる。
篤胤の立場には大いに共鳴するところがあつた筈である山田氏だが、篤胤の『古史徴開題記』を校訂しながら、神代文字の存在を主張する篤胤を批判し、はつきり神代文字の實在を否定してゐる。決して單なる「日本文化萬歳」の姿勢で學問に臨んだ訣ではなく、自己の信念やイデオロギーに基いて事實をねぢ曲げる事もしなかつた。學者としては良心的であつたと言へる。
山田氏は「國學者の末裔」として、政治的には國粹主義の立場をとつた。國學者・神道人の立場から『國學の本義』『神道思想史』等を、國粹主義者の立場から『大日本國體概論』『國民道徳原論』等を著した。これらの著作で山田氏は學問的に邪道な方法をとつてゐたものではない。が、山田氏にアジテータ的側面があつた事は否めない。
その爲、敗戰直後、雜誌「人物評論」の人物評「ホワイト・リスト」欄で採上げられ、嘲笑された事がある。
富山縣の一神職の家に産れ家庭の事情から富山中學を二年で退學、爾來獨學力行して國語科及び國史科の中等教員免許状を獲得、故上田萬年博士に認められて國語調會に關係し、日本大學教授を經て昭和二年東北帝大法文學部教授に任ぜられ、同四年文博、同八年退官、同十五年新設の神宮皇學館大學長に拔擢せられ同十九年貴族院議員に敕選、同二十年國史編修院長に榮轉……と彼の略歴を書きたてゝて見ると、こゝまでは將に立志傳中の一人としてはなやかな存在であるが、終戰と同時に局面は一轉した。彼は職を去り伊勢の一隅に隱遁の生活を送る事となつた。彼は御用學者、國粹主義者であると言はれてゐる。戰時中盛に雜誌に書きたてた彼の論説を讀むと、この非難に對して辯解の餘地がなくなる。……
戰後の國粹主義に對する非難の合唱には目を覆ひたくなるものがあり、この雜誌「人物評論」も、今冷靜な目で見ればわざとらしいくらゐの左傾的な内容と主張を含むものであるが、さうした點を差引いても、山田氏が相當目立つてゐた事は間違ひなく、非難の矛先が向けられた事は已むを得ない。
一方、日本文法の成立に重要な役割を果した事實は否定出來ず、戰後も國語學の領域では一目置かれてゐた。この人物評でも、學者として活動する事を奬める結論になつてゐる。
「日本民族は神敕に基き世界を統一すべく神からの使命を與へられてゐる」などと絶叫したこの老人は、戰爭犯罪人としてマ司令部に逮捕せられなかつたのを唯一の幸ひとして敕選も辭し、專ら文法史研究の本來の使命に餘命を捧げるべきである。
この人物評は、「灰鰤一郎」なる匿名の人物が書いたものだが、編輯後記に據れば投稿原稿中より採用したものである
との事。
敗戰後、山田氏は公職追放に遭ひ、國史編修院長等の職から退いてゐる。神宮皇學館大學は敗戰後、廢止される(のち皇學館大學として再發足)。
国語学会編『国語学辞典』(昭和30年8月20日初版発行・昭和35年2月29日訂正5版発行・東京堂)によれば、終戦後はおもに日本語の大辞書、芭蕉の用語の辞典作成に従事している。
との事。昭和二十八年に文化功勞者として顯彰されてゐる。