かういふ問題の起る根本は、要するに、日本が漢字を用ゐてゐるといふこと、さうして、さういふものは西洋にない。さういふところに根據があるのであつて、西洋はローマ字二十六字で、なんでも自由自在に書ける。然るに日本では、非常に多數の漢字を使ひ、しかもその上に假名を使つてゐる。かういふことでは、いはゆる歐米と力を爭つて行くのに、無駄骨が折れる、かういふ考へから起つて、それにいろいろの理論を後から後からと附け足して來てゐるやうに私には思はれる。さうして、若い人々にはこれは既に方針はきまつてゐるのだと云つてきかせる。今日の人々の間にはそれらの歴史は恐らくは知らないでさういふ事にきまつてゐるかと思ふものもあるであらう。
さういふ事情であるから今日さういふ國語なり國字なりを改め變へようといふ人々は自己の意見に醉つてしまつて、それが抽象的に固定した目的になつてしまつてゐる。さうして、その固定した精神に基づいて、自己の運動の理由の根據を示さうといふつもりで、國語がむつかしいとか、漢字がどうとかいふことを言つてゐるのだらうと思ふ。
今かやうなことを主張することの大體の思想的傾向を考へてみると、幕末の頃から明治の初めにかけて起つた歐米の文明に同化しようといふ所にある。御存じの通り、明治維新の頃から歐米のいはゆる文明開化を早く日本へ採り入れて、日本が彼らに負けないやうにする、その必要があるといふので、いはゆる西洋文明を日本へ採入れようといふ多くの運動が起つたわけである。
それらの運動の趣旨は必ずしも惡かつたとは言へないであらう。しかし、それらの人々は、實際、日本のあらゆる事物について、根本的にその本質そのものを熟慮してみた上の意見であつたかと考へてみるに、恐らくはそれほど深く研究したものではなかつたと思はれる。
國語の上での著しい例を舉げるならば、明治五年に森有禮が、日本語を廢して、英語を以て日本の國語としようといふ意見を主張してゐる。それは當然、言ふべくして行はれることのない間違つた意見である。のみならず、それがもし行はれたならば、恐らく我が國が滅びてしまつて英米の領地になつてしまつてゐたであらう。或はまた、日本の人種改良論なるものが、やはり明治十七、八年頃に起つてゐる。そして、日本人の髮の色、目玉の色が西洋人と非常に違ふ。だから早く雑婚して、目色、毛色を變へなければいかぬといふ非常に不都合な議論もあつたのである。しかも、それが大眞面目に正々堂々と論ぜられたのであつた。しかし、それも非常に間違つた議論であるといふことで、その影を潛めてしまつた。今日の時勢では、ローマ字論もやはり影を潛めた形であるが、しかしこれとても、いつ何時再び頭を擡げるかも知れぬ。このローマ字を主張する論も、日本の假名遣がむつかしいとか、漢字がむつかしいとかいふ論も、表面上、皆別々の意見で各々違ふやうではあるが、その思想的根柢を探つてゆけば、結局おなじ思想に基づいてゐると思ふ。この思想には、われわれから見ると、非常に恐るべき思想が、御本人には氣附かずとも、その根柢に流れてゐると思ふ。いはゆる鹿鳴館時代の歐米崇拜思想の非常に間違つたものであることは、その後段々反省を加へられて來てゐる。例へば今日に於ては、鹿鳴館時代か……と言ふやうになつて、一種の嘲りみたいな態度で取扱はれてゐる。然るに、その鹿鳴館時代の思想によつて起つた、この國字國語を簡單にしてしまへとか、或は、たゞ便利にさへなればよいといふやうな思想が、今以て精算せられないで殘つてゐることは、非常に不思議な現象である。少しばかり國家の現状を考へ、又は過去からの歴史を熟慮して、愼重に國家の前途を思ひ、永遠の國家の生命といふことを考へてみた時に、さういふ輕佻浮薄な意見が、この國家重大事に於て述べられ、又それが、或は道聽途説かも知れぬが、政府によつて實行せられようとしてゐることは、非常に悲しむべき、また非常に憤らなければならぬ事柄であると思ふ。
八月の二日に出た「週刊朝日」を讀んでみると、東京市の或る國民學校の訓導が、國語の假名遣を、複雜怪奇だといふやうなことを言つて罵つてゐる。一體、かやうな者が日本國民の一人であるといふことは、われわれ同胞として、じつに恥ぢざるを得ないさういふものが又「皇國頌詞」といふ言葉を以て、われわれが苦しいながら、御國の爲に多少なりとお役にも立つであらうかと思つて書いてをるその雜誌に同居してゐるなどといふことは、私個人としても堪へがたい恥辱である。しかし、さういふ感情的のことは、今こゝで多く言ふを憚らねばならぬ。問題をこゝに、實際の國語そのものについて考へるといふ方に移してみたい。