入力者
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
底本
『國語の本質』(山田孝雄著・昭和十八年十二月十二日發行・白水社)

國語の本質

近頃やかましい所謂國語國字改良論の起りは、慶應二年に、前島密が、國字及び國文を改良したらどうかといふことを、時の將軍、徳川慶喜に申立てたに始まる。それから明治に入つて、やはり前島密が、漢字を廢止する意見なるものを、當時の集議院に提出してゐる。その時分の、いはゆる新知識といはれる人々が似た樣な意見を立てゝゐる。たとへば柳川春三など、政府の布告の文書にも、假名文を用ゐたらよいといふことを建白してゐる。明治六年頃になつて、やはり前島密が、當時の岩倉右大臣に内申してをることがある。

それから、ローマ字で國語を書かうとする考へ方は、明治六年に西周が、明六雜誌にその意見を發表してゐる。それに對して西村茂樹は、同じく明六雜誌に、西周の説を批評して、その非なることを論じてゐる。明治七年になると、清水卯三郎が、平假名で國語を書くがよいといふ説を主張した。その頃から、いはゆる國語國字の問題が段々やかましくなつて來たのである。

こゝに一つ注意すべきことがある。それは明治十三年二月に加藤弘之が、日本の國語の改革といふか整理といふか、それに着手するに先だつて、博言學の研究をする爲に、秀才をヨーロッパに留學せしめ、その歸朝を待つてそのことに着手せしめようといふことを、今の學士院の前身である学士會院から、文部卿(すなはち今の文部大臣)に開申するといふ建議をやつてゐる。この事柄は、じつは明治の國語學の歴史の上に、非常に大きな意味をもつものであつて、これが今日までやはり影響してゐる。世間の人はこの事と今の國語問題と何の關係も無いやうに見たり、或は又、これを非常に輕く見てをるのであるが、こゝに大きな問題があるのである。

その後、漢字を廢して、假名だけ使つて、國語を書かうといふ意見、それからローマ字を用ゐて國語を書き記さうといふ意見、この二つが並んで出て來た。明治十六年になると、花なの友ならびに假名の會なるものが起つた。それがずつと後まで、いろいろ形をかへてもつぱら假名を用ゐて國語を書かうといふ、一つの大きな流れをなして來るわけである。

それらの議論は、明治十六年、十七年、十八年、十九年、二十年、二十一年、二十二年と、數年に亙つて、多くの意見が、あちらからも、こちらからも出て參つたのである。

それが明治二十三年となり四年となると、多少その熱が冷めてゆく形であつたが、また明治二十七、八年頃から、國語に關係する議論が再び盛んになり、三十三年八月、文部省が小學校令を發布して、いはゆる字音の假名遣に、俗にいふ棒引きを用ゐ、まつたく今までになかつた、大きな打撃を、日本の國語の上に與へた。しかしそれに對しては、世間に非常に強い反對が、あちらからも、こちらからも起り、文部省も遂にこのいはゆる棒引きの、字音假名遣を撤囘せざるを得なくなつたのである。

その後の國語に關するいろいろの運動は、これまた甲論乙駁、一々これを舉げることは出來ないが、こゝに國語調査委員會なるものが起るといふ、一つの新しい事實が生じて來た。

國語調査委員會の出來たのは、明治三十五年であるが、その前明治三十三年、文部省は前島密男爵を委員長とし、上田萬年氏以下六名の人に、國語調査委員なるものを囑託してゐる。これが明治三十五年の二月まで續いた。そして三月には新たに國語調査委員會といふものの官制が出來、四月には加藤弘之男爵が委員長になり、上田萬年博士がその委員會の主事になり、その他十人の人が國語調査委員になつた。この國語調査委員會は、大正三年に廢せられて、その後暫く國語調査委員會といふものは存在しなかつた。さうして中橋徳五郎氏が文部大臣になつた時に、臨時國語調査會が設けられ、松田源治氏が文部大臣の時、國語審議會が設けられて、今日に至つてをる次第である。

それが大體の事実の經過であるが、現在の國語問題といふものの中心になつてゐるのはいつでも、この國語審議會の人々のやうに思ふ。この國語審議會なるものがどういふ仕事をしてゐるか、それは私は直接關係してゐないので知らないが、そのやつてゐることを見、言ふ所を聞いてみると、今の國語審議會のやることは、ずつと初め、明治三十五年に出來た國語調査會で既に決まつてゐることである、かう言つてをるやうに思ふ。それが果して決まつてゐることであるか、ゐないことであるかを論爭する必要はないが、要するにさういふことを言つてゐる。

その明治三十五年に出來た國語調査委員會が、どういふ性質をもつてをつたか。これは私もその會に補助委員を任命されてをつたから知つてゐるが、その委員長には加藤弘之氏がなつてをり、主事には上田萬年氏がなつてをられるといふことには、歴史的の意味がある。

それは前にも述べたやうに、明治十三年に、國語の改良といふか、改正といふか、それをやるに先だつて、博言學の研究のために、秀才をヨーロッパに留學せしめて、その歸朝を待つて着手せられたいといふことを、加藤弘之氏が主張して、それを學士會院から文部卿に開申するといふことがあつた。この加藤弘之氏が後に、大學の總理すなはち今日の總長となつたのであるが、その頃に、いはゆる博言學を研究するために、外國へ留學せしめられたその人こそ、上田萬年氏である。上田萬年氏が洋行して、歸朝せられたのは慥か明治二十七年のはじめだつたと思ふ。この上田萬年氏が留學して、いはゆる博言學を研究せられた。この博言學は上田氏が歸られてからは、言語學といふ名前に變つた。上田氏はこの言語學の講座、後には國語學を擔任せられ、この上田萬年氏が、新たな日本の國語學の元祖となつてゐる。而して新たな學問を我が國に起したその源は、加藤弘之氏の意見である。したがつて、上田萬年氏が主張して起した國語調査委員會に於て、上田氏が主事になり、加藤氏がその會長になるといふことは、歴史的に觀てこれがはつきりその意味がわかるのである。その前の官制のない時分の國語調査委員なるものに於ては、前島密氏が委員長であつた。これは冒頭にも述べたやうに、慶應二年に、國字國文の改良を主張した人である。さう云ふ人が委員長になつて、要するに國語國字の改良論を具體化しようとして、官制を布いたりなんかしてゐる。それが國語調査委員會になつたり、今の國語審議會になつたりしてゐるわけである。このことは、はつきり考へられる。

明治三十五年に官制を布かれて生じた國語調査委員會は大正三年まで滿十二年以上續いたのであるが、その間何をしたかといへば、自分もその責を免れない譯だが、調査の方針といふものを數ヶ條議決したが、殆ど何等の實績を舉げ得なかつたのである。まことに申譯の無い事であつたが、山本内閣が之を理由として廢止したものであつたらう。

大正十年に設置した臨時國語調査會は時の文部大臣中橋氏と次官南氏と保科孝一氏との合作であらう。その委員には異論を唱へさうな人は加へない。それは議論の時代では無い、實行の時代であるといふことにあつたことは、その時委員長になつた森鴎外氏が憤慨して屡語られたことを私は今に覺えてゐる。さてその臨時國語調査會が昭和九年に廢止せられて國語審議會を設けられて、南氏が會長になり、保科氏が幹事長になつたのである。これはその考へを實行しようといふ機關であることは著しく考へらるゝところである。

それだから今の國語審議會といふものは、國語を愼重に審査するといふことよりも、初めの加藤弘之氏が、博言學の研究を興しそれに基づいて國語の修正とか改正とかをやらなければならぬといふ意見の、具體的延長に止まるものと思ふのである。この事實をまづ考へて置く必要がある。