制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-08-15
改訂
2008-08-22

山田孝雄の文法

時枝誠記による評價

時枝誠記は『日本文法論』の緒論で山田孝雄の日本語文法、所謂「山田文法」を評價して、次のやうに述べてゐる。

明治初年以來の文法研究が、無自覺な組織の變改に腐心してゐる時に、一方に文法の何たるかを考へ、文法範疇に確實な根據を與へようと努力されたのは山田孝雄博士であつた。博士の『日本文法論』は、從來の文法組織の據つて來たるところを、西洋及び日本の研究について檢討し、その矛盾を指摘し、泰西の心理學論理學を斟酌して、その上に自家の説を建設しようとされたものである。言語の構成要素であるところの思想の方面を重視して、それによつて文法體系を組織しようとされてゐることが著しく注目されるのであつて、それ故にこれを内容主義の文法研究といふことが出來るであらう。博士に至つて、文典は從來の實用的見地を離れて、文法學は言語を思想に應じて運用する法則を研究するものと定義されるやうになつた。

山田文法は、言語の内容である思想に重點を置いて體系を立てようとする内容主義の文法研究であつた。一方、橋本文法は言語の外形である音聲に重點を置いて體系を立てようとされてゐる形式主義の文法研究である。

時枝は、兩者を對立的にさう見てゐた。どちらが良い惡いと云ふのではなく、構造主義的あるいは要素的言語觀に基づく兩極の研究だ、と時枝は述べてゐる。

山田文法成立のいきさつ

大槻文彦の説

大槻文彦は『廣日本文典』(1897年)で、「主語」と「説明語(述語)」の考へ方を示した。

「花、咲く。」「志、堅し。」ナドイフニ(中略)「花、」又「志、」ハ、其作用ヲ起シ、又ハ、其性質ヲ呈スル主タル語ナレバ、主語(又ハ文主)ト称シ、「咲く」又ハ、「堅し」ハ、其ノ主ノ作用性質ヲ説明スル語ナレバ、説明語ト称ス。(中略〕主語ト説明語トヲ具シタルハ、文ナリ、文ニハ、必ズ、主語ト説明語トアルヲ要ス。

當時は日本語研究も黎明期であり、さう云ふ状況でなされた大槻の功績は大きなものがある。本格的な辭書である『言海』を編纂する爲、語の分類が必要となつて、日本語文法の確立を迫られた大槻の「廣日本文典」は、先例がないだけに、あとから見れば不十分だが、當時としては劃期的なものであつた。しかし、不十分なものである事は否み難い。

助詞「は」のない、「一と一を足すと二になる」のやうな文章は日本語では頻出する。しかし、歐米の文法學を參考にした大槻の文法では、取敢ずsubjectを「主語」と譯すのが精一杯で、日本語文法として完全なものを實現する事は出來なかつた。

山田の抱いた疑問

しかし、大槻文法が當座、教育の場で用ゐられた事は仕方がない。他に代るべきものがなかつたからである。だが、その大槻文法を教授してゐた山田孝雄は、或時、一人の生徒に大槻文法の問題を指摘された。

今を去ること殆ど十二三年前の事なりき。著者は其以前よりして文法専攻の志を有せり。当時はをこがましくも相応の知識ありと思へりき。当時某氏の文法書を以て教授に従事したりき。この文法書は即「は」を主語を示すものとせるなり。一日この条に及ぶや一生反問して「は」の主語以外のものを示すことを以てす。余は懺悔す。当時の狼狽赤面如何計りぞや。沈思熟考して、徐に其の言の理あるをさとり自ら其の生徒に陳謝したる事ありき。実にこれ著者が日本文法を以て自家の生命とまで思准するに至りし最大動機にして(以下略)

かうして山田は、日本語に於ける主格の問題を考へさせられるやうになり、最終的に日本語獨自の文法が必要である事に思ひ至る事となつた。subjectの譯語として「主語」を想定する、と云ふ飜譯的な發想から脱した、日本語に即した山田文法が作られる事となつたのである。

山田は述べてゐる。

主格とは何か。従来は之を文の主体なりといへり。然るに吾人の研究する所によれば、文は必ずしも主格述格の対立する形をとるものにあらずして、主格述格の区別を認むること能はざる形式の文も存するなり。この故に文の主体即ち主格なりといふことは事実の上に於いて普通性を有せず、又説明の上にも通ぜざる所あるなり。

そして、意味の上から主格を判斷して主語を決定すべきである、と云ふ論が生れ、言はば「意味に基く文法論」として、山田文法は成立する事となる。

結論

山田文法には曖昧な部分が少くなく、批判の餘地はある。また、新しい「言語學」の影響を受ける以前の「國語學」であり、特に戰後の發達した言語學が新しい視點を提供してゐる現在、山田文法はそのままの形で通用するものとは言へない。

しかし、その後に出現した多くの文法學説に比しても、山田文法は必ずしも劣つた文法であるとは言へない。寧ろ、現代的な視點から讀返しても新鮮に感じられる指摘も案外多い。古い割には優秀な學説である、と言ふ事が出來る。

「意味」に基くとされる時枝誠記の文法には、三上章による批判がある。その三上が案外高く山田文法を評價してゐる。形式的な橋本文法(或は橋本の文法の形式的な側面である現行の「学校文法」)に對しては意味・内容の面から見た語の分類である時枝文法が對立的に存在するが、時枝氏以前の説である山田文法に、よりラディカルな主張を見る向きもある。