制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2004-10-11

時枝文法を三上章は何う見たか

「詞」と「辭」/「獨立語」と「半獨立語」

三上文法は、日本語の單語を分類するのに、活用の有無を上位の基準とせず、獨立語か半獨立語かを基準とする、一風變つた文法である。三上氏の發言に關らず、三上文法が時枝文法の「詞」と「辭」との辨別を念頭に置いて、その問題點を乘越える事を目標にして成立してゐる事は、否定出來ない。

三上章氏は『現代語法序説』(刀江書院)で以下のやうに述べてゐる。例によつて表記は正字正かなに改めた。

西洋文法ではセンテンスを構成する要素を二大別して、、觀念内容を持つ意義素S(Semanteme)と、觀念と觀念との關係を表す形態素M(morpheme)としてゐる。初から品詞分けのために立てた區別なのかどうか知らないが、品詞分けにも關係してくる區別である。屈折語ではSだけが單語をなすことは少く、次のやうな二種類の形式になる。

S+M
名詞、形容詞、動詞など
M
前置詞、接續詞、冠詞、代名詞など

細部においては異論があるかも知れない。ないのかも知れない。そこに私にはまだはつきりしない點があるが、西洋文法を論じてゐるのではないから、いゝ加減にしておく。

中國語のやうな孤立語では單語はSかMかの何れかに所屬するはずである。王力の文法では實詞と虚詞とに分けられてゐる。一語一字だから、前々から實字虚字が云々されてゐたやうに思ふ。中國文法には不案内であるが、この對立を表すのに實と虚の二字を使ふことは一般的な傾向だらうと察しられる。

我國の詞と辭との對立もだいたいこれに當つたり、當らなかつたりである。學者によつて概念規定に相當な違ひがあるからで、それが現在の文法界で大きな問題になつてゐることは周知の通りである。ともかく一應代表的な見解を並べておかう。詞と辭といふ用語を使つてなくても、似たやうな對立を云々してゐるものはついでに並べておく。詞と辭に對する解釋と、今一つ辭の中で一ばん問題になる助動詞を肯定するか否定するかの點とを掲げる。

山田文法
前記の西洋文法の解釋と同じく、觀念語と關係語とに分ける。助動詞は全部否定し、少數は形式用言とし、多數は雜な活用語尾と見る。
橋本文法
詞は獨立して單位を作りえるが、辭は詞に付屬してはじめて單位を作る。それで品詞は自立語と付屬語とに分れる。助動詞はだいたい全部認める。
時枝文法
詞は表現される事物、事柄の客體的概念的表現で、辭は表現される事柄に對する話手の立場の表現。助動詞は使役、受身、尊敬以外を認める。

山田文法の品詞分類の實際は、じつはSとMとに二分する主義を貫いたものではない。こゝでは、西洋文法流のSとMの概念が他山の石として役立つことはある、と言ふに止どめておく。前節に述べたことによつて、私が橋本文法の立場に立つことは當然である。辭の古義に照らしてみると、時枝文法の解釋の方が正統的ださうだが、ハシモト辭には西洋文法との對決を經てゐるといふ長所がある。

時枝文法の詞と辭との概念が重要な價値を持つてゐることはたしかである。小林英夫氏が立てられた

事理の理を表す
dictum(客觀的)
論法の論を表す
modus(主觀的)

の對立もそれに當るものであらう。もつともこの用語は西洋文法に、たとへシャルル・バイイあたりに由來するものか、それとも逆に、小林氏が時枝文法の影響でこのやうな横文字を案出されたのか、それは知らない。たゞ私は偶然、何時かの「文學」に出てゐた小林氏の論文をさきに讀んだから、それ以來この用語で文法を考へる癖がついてきた。

この對立概念が重要であり、シンタクスを考へる際に有能であることは否定しえないが、時枝文法のやうに、これで品詞分けをやることは根本的に無理だと思ふ。この無理が時枝文法によつて自覺されたのは副詞においてである。いはゆる陳述の副詞「モシ「ドウゾ」恐ラク」などが辭になつて、副詞の内部に詞と辭の境界線ができ、つまり副詞が横に割れたことである。自覺はされてゐないが、助詞も横に割れるし、もつとひどいことは動詞が縱に割れることである。

因襲的な五つか六つかの活用形をそのまゝ認めてそれらを全部詞とし、その下へ陳述のゼロの辭を置く、といふ考へは素朴すぎる。動詞は語幹が詞で、活用語尾が辭である。大野晋氏(國語と國文學、五十年五月)や福田良輔氏(國語國文、五十二年十月)の意見通りである。「讀」なら

の小文字の部分が詞で、大文字の部分が辭である。この詞と辭とを上下に引伸ばしてみよう。

この語幹、使役、受身、丁寧、完了、未然、推量の膠着棒を上端から見下せば山田文法の複語尾であり、下端から見上げれば複語幹であり、横から傍觀すると、だいたい上半分が複語幹で下半分が複語尾らしく見える。二重線の邊にやゝ不連續な點が認められる。この不連續點につけこんで、すでに山田文法は複語尾を

  1. 屬性の表現の方法に關するもの
  2. 統覺の作用に關するもの

に二分したのであるが、時枝文法がさらに進んで一の方を助動詞から閉出したことはあまねく人の知る通りである。

さつきの膠着棒は一箇の動詞を上下に引伸ばしたものである。詞と辭との間の伸びたものである。詞と辭との間では兩要素が混交する。語順上、上ほど詞的であり、下ほど辭的であり、中間には推移部がある。時枝文法では簡單に割切つてあるが、中間的なものにはどつちつかずの性質があらはれる。希望、打消、完了、それから比況、さういつた助動詞には簡單に詞か辭の一方へ片づけられない點が見られる。それから丁寧の「マス」も問題である。これはたしかに話手の立場を表すものではあるが、話手が場面に強制されて取る他律的立場を表す點で、自立的なムウドの助動詞とはかなり違つたものである。

助詞の中では格助詞がトキエダ辭からはみ出す。概念過程を含まぬ形式、即、話手の立場の表現と考へられてゐるが、各詞は概念過程を踏まずに、しかし客體間の關係を表すのである。時枝文法では格助詞だけが、事柄と事柄との關係認定を表す、といふふうに二重の名詞で規定されてゐる點にご注意願ひたい。格助詞はたゞ一箇ではない。連用の格助詞だけが七箇ある。それでは「ガ「ヲ「ニ「ト」等々の違ひは何を表す區別なのか。これは決して話手の認定の仕方による區別ではない。むろんこゝでは、對格の「ヲ」がもとは感動を表す辭だつたといふやうな大昔のことを云々してゐるのではなく、現在の格助詞のシステムを相手にしてゐるのである。關係の違ひを表すための「ガ「ヲ「ニ「ヘ「カラ「デ「ト」である。「認定」は辭を裝ふためのめくら判にすぎない。

三上氏は、時枝文法の意圖は評價するが、その割切り方には否定的である。理念としての「詞」と「辭」の發想は重要であるが、語を分類する際の絶對の基準として用ゐる事は、特に膠着語である日本語では不可能である、と指摘する。

實際、時枝誠記が自らの理論によつて行つた語の分類でも、格助詞のやうに曖昧なものがある。有名な「ゼロの辭」の規定も、動詞の語幹・語尾に關する考へ方としては最早現代的でなく、受容れ難い。

そして、橋本文法の「準用辭」「準用助辭」や、佐久間鼎の「吸着語」を參考にしながら、三上氏は半獨立語を「助詞」と「準詞」とに分類してゐる。

「形容動詞」の解消

三上氏は、從來曖昧であつた語をどのやうに區分するか、と云ふ觀點から文法を構築してゐる。「形容動詞」のやうな曖昧な品詞に關しても、當然のやうに、批判的檢討がなされてゐる。

時枝氏は、「形容動詞」を一つの品詞として認めない。三上氏も「一つの品詞として認めない」と云ふ點では意見を同じうする。が、認めないで、どの品詞に繰り込むか、と云ふ點で、兩氏の立場は根本的に異る。

時枝文法で從來の「形容動詞」は、基本的に特殊な名詞とされる。

從來「形容動詞」に分類されたのは以下のやうな語であるとして、時枝氏は批判を加へてゐる。(『日本文法 口語篇』岩波全書)「第一種」云々は文語に於て使はれてゐた用語。

第一種形容動詞
「白からう」「白かつた」
第二種形容動詞
「靜かだ」「丈夫だ」
第三種形容動詞
「堂々たる」「確乎たる」

時枝氏は、取敢ず橋本文法を前提に論じてゐる。

「第一種」は、橋本文法では形容詞の活用系列に收めるが、それに從ふ。「第三種」は、やはり橋本文法に從つて、連體詞に入れる。

問題は「第二種」であるが、「靜か」「丈夫」を體言の仲間に入れ、それに續く「だ」「なら」「で」「に」を「指定の助動詞」と見る、と云ふのが時枝氏の考へ方である。

三上氏は、動詞と形容詞の代表形を論ずる文脈で、時枝文法における「形容動詞」否定の問題を採上げてゐる。

時枝文法が形容動詞を解消して、名詞でも代名詞でもない體言、おまけに格助詞もつけられぬやうな體言といふ品詞(?)を設ける目的は何なのか、私の理解の外にあるが、たゞ形容動詞を否定する理由として上げてあるのは次の二條である。

  1. 辭書に語幹が採録してある。
  2. 丁寧表現「静かです」の説明に困難を感ずる。

一は理由にならないし、二も困難を感じる方がどうかしてゐる。中等文法中でも進歩的な佐伯梅友氏の教科書は少しも困難を感じてゐない。「静かです」と「花+です」とをもろともに「丁寧形」の一語で片づけてゐる。私も前からその意見である。(略)

「辭書に語幹が採録されてゐる事」と云ふ要約の仕方は意地が惡いもので、時枝氏は我々の常識的な言語意識として、「靜か」「丈夫」といふやうな語は、「親切」「綺麗」「勇敢」「大膽」「おだやか」「すなほ」などの語と共に、一語として考へられてゐるものだ、と云ふ事の傍證として、辭書に於いても一般にそのやうに採録されてゐると述べてゐる。ただ、「常識的な言語意識」と云ふ主張の根據が、根據として薄弱である事は否めない。

また、『日本文法 口語篇』の「いはゆる形容動詞の取扱ひ方」で、橋本進吉氏が「單獨で用ゐられない」事を理由に「靜か」等の「形容動詞の語幹」を獨立の一語と認めないのに對して、「たちまち」「すぐ」等の語も「單獨で用ゐられないが一語である」として、「單獨で用ゐられない」事が「語として成立しない」とする事の根據にはならないと時枝氏は述べてゐる。これは消極的な防御で、積極的な主張でないから、三上氏は無視したらしい。

しかし、時枝氏が「形容動詞」の扱ひについて、意味に基かず、「語性」を根據に論じてゐる事は、注目して良い。

(略)いはゆる形容動詞は、一般に體言(名詞)に指定の助動詞の附いたものと全く同等に取扱はれることとなるのである。

ただ右の二例について區別されることは、意味の上から云つて、前者の「親友」が名詞的であるのに對して、後者の「親切」が形容詞的であり、從つて、後者には、「大變」「非常に」といふやうな連用修飾語を加へることが出來る。しかし、それは意味の上から來ることで、「親友」「親切」の二語が語性を異にしてゐるためであるからではないのである。例へば、「健康」「單純」「單調」といふやうな語をとつて見ても、

これらがいづれを名詞とし、いづれを形容動詞とするかは容易に判斷を下し得ないことであつて、教育上からも極めて困難な問題である。これらの相違は、品詞の別として教授せらるべき事柄ではなくして、名詞の意味論に所屬する問題である。全く名詞と考へられてゐる語の中にも次のやうな用法がある。

時枝氏が、前者の「親友」が名詞的であるのに對して、後者の「親切」が形容詞的であり、と述べ、「的」としてゐる一方で、三上氏は形容詞的である「形容動詞」を、形容詞の分類に繰り込んでしまふ。「橋本氏の形式主義的な文法觀」に對立する立場をとる筈の時枝氏が、「形容動詞」の扱ひにおいて形式主義的な態度をとつてしまつてゐる點が、三上氏に批判される理由となつてゐる。

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