亂暴なメモです。
圖書館で、藤原書店から出てゐる言語帝國主義が何うたらと云ふ本を眺めてみたが、言語學の本なのか、階級鬪爭の本なのか、判斷がつかなくて困つた。
「吊し上げ」を學問と勘違ひしてもらつても。
「言語帝国主義」と云ふ思想は、それが思想と呼べるほど全うなものかどうかは極めて疑はしい。「言語帝国主義」を非難する人の論法は全て、マルクシズムを參考にしたとおぼしき、獨斷を客觀と言ひくるめる類のものである。
「事實を自分の信念に基いて認識し解釋した結果」は、事實が根柢にあるにしても、客觀的で科學的であるとは限らない(過程に論者の認識と云ふ主觀が入つてゐる)。だが、「言語帝国主義」に反對する人、飽くまで主觀的である「事實を自分の信念に基いて認識し解釋した結果」を「科學的である」と言張る。
時枝誠記を「言語帝国主義者」と決め附け、「吊し上げ」を行ふ「學者」の論法は以下の通り。
「偏見」に基いた事實の解釋によつて、時枝を「言語帝国主義者」と決め附ける論法を用ゐるのは勝手だが、それは飽くまで主觀的な解釋に過ぎない。
現代に生きる人間が、自分の全く獨斷的な偏見に基いて、當時の價値觀の下に生きてゐた過去の人間を一方的に裁くのは、卑劣極まる。自分の意見や自分の解釋は絶対に正しい無謬のものである、と言ふのは思ひ上りである。自分の主觀を客觀と言ひくるめるのは嘘吐きのする事である。
時枝が、當時の正義に忠實であつた事は賞贊されるべき事であれ、非難されるべき事ではない。また、當時の正義が現代の正義に合はない、と云ふ事は、當時の正義を現代の正義に基いて裁く理由にはならない。なぜなら、過去の正義を裁いた現代の正義は、再び未來の正義に裁かれるかも知れないからである。
正義の相對性は、正義に基く行爲を否定するが、その否定をもまた否定する。そして、その圓環を斷切るものは絶對的なものであるが、その絶對性を相對主義を自稱する者が主張するのは、矛盾の誤りを冒すものである。
「事實を寄集める事によつて事實の眞相が明かになる」と云ふ思想を否定する學問が時枝誠記の學問であつた。時枝の言語過程説は、解釋には常に人間の主觀が介在する事實を大前提とするものである。その大前提が氣に入らないがゆゑに、「言語帝国主義」批判者は時枝誠記を斷罪し續けるのではないか。「言語帝国主義」批判者は、恐らく自分の主觀的な意見を、絶對のものとしたいのである。
絶對主義を否定してゐる積りの「言語帝国主義」批判者は、自らの主張が絶對主義的である事實を反省すべきである。
そもそも「帝国主義」と云ふ言ひ方自體が、既に過去帳入りしつつある現代に於て、平気で「言語帝国主義」と言へる精神の「保守性」をこそ、現代に生きる我々は批判すべきであらう。
『言語過程説の研究』で『植民地のなかの「国語学」』は徹底的に批判されてゐる。