言語の本質を時枝氏は「過程」と動的にとらえ、関口氏は「意味形態」と静的に表現していますが、両者とも言語を実体とみなす自然科学的アプローチに反対しており、言語を言語行為(広い意味での)の結果として生じたもの(書かれた言葉・話された言葉)から出発するのではなく、言語行為(広い意味での)が具体的な形をとる際の、話し手の認識作用、言語行為自体、つまり世界をとらえるそのとらえ方・考え方を研究すべきだ、と主張しています。
ソシュールに対する時枝の批判はその後も一貫しているが、その批判が全くの誤解にもとづくことはこれまで幾度も指摘されてきた。しかし時枝の誤解は普通に考えられているよりもっと根が深いものである。時枝はいかに丹念にソシュールの議論を検討しても、決してそれを理解することができなかっただろうと思われるのである。では時枝をそのような誤解へと導いた原因は何なのか。その原因こそが時枝の「言語過程説」を支える究極的な言語観にほかならない。そしてその中には、言語と主体に関するごく曖昧な観念が潜んでいる。