制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2004-12-12
改訂
2007-11-24

小倉百人一首


秋の田の かりほの庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつゝ
天智天皇 626〜671。第38代天皇。大化の改新を斷行、後に近江宮を築いた。この歌は、もと農民の歌が天皇の歌とされるやうになつたとする説と、天皇が農民を思ひ遣つて作つたとする説とがある。
萬葉第一期。
後選集・秋・302
春過ぎて 夏來にけらし 白妙の 衣ほすてふ 天の香具山
持統天皇 645〜702。第41代天皇。天智天皇の皇女。天武天皇の皇后。藤原宮を築いた。
萬葉第二期。もと「夏來るらし」「衣干したり」であるのを改作。もとの歌の方が良い。
新古今集・夏・175
あしひきの 山鳥の尾の しだり尾の 長々し夜を ひとりかも寢む
柿本人麻呂 生歿年未詳。持統・文武帝に仕へた宮廷歌人とされるが、實在が疑はれる事もある。三十六歌仙の一人。後世「歌聖」と仰がれた。長歌に優れたものが多い。「あしびきの」よりも「あしひきの」の方が良い。
萬葉第二期。
拾遺集・戀3・778
田子の浦に うち出でて見れば 白妙の 富士の高嶺に 雪は降りつつ
山部赤人 生歿年未詳。宮廷歌人。三十六歌仙の一人。叙景歌に優れる。人麻呂と竝び稱せられ、二人を「山柿」と呼ぶ事もある。
萬葉第三期。
山部宿禰赤人望不盡山作歌一首併短歌
天地の 分れし時ゆ 神さびて 高く貴き 駿河なる 布士の高嶺を 天の原 ふりさけ見れば 渡る日の かげもかくろひ 照る月の 光も見えず 白雲も い行きはばかり 時じくぞ 雪は降りける 語りつぎ 言ひつぎゆかむ 不盡の高嶺は
反歌
田子の浦ゆ うち出でて見れば 眞白にぞ 富士の高嶺に 雪は降りける

この反歌を新古今集で採録した際、撰者により改作が行はれてゐる。「雪は降りつゝ」では表現としてをかしい。

新古今集・冬・675
奥山に もみぢ踏みわけ 鳴く鹿の 聲きく時ぞ 秋は悲しき
猿丸大夫 生歿年未詳。實在したか何うか疑はしい傳説的な人物。勅撰集に入集歌なし。
古今集・秋・215「讀み人知らず」
かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける
中納言家持 大伴家持 718?〜785。旅人の子。名門大伴氏の末裔であるが身分は低かつた。萬葉集の最終的な編者と見られる。
萬葉第四期。
新古今集・冬・620
天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に いでし月かも
安倍仲麿 701〜770。遣唐使の留學生として入唐。以來、三十年間、玄宗皇帝に仕へた。李白、大維らとも親交があつた。遂に歸朝出來ず、唐土で死んだ。朝衡と呼ばれる。
古今集・羇旅・406
わが庵は 都のたつみ しかぞ住む 世をうぢ治山と 人はいふなり
喜撰法師 生歿年未詳。六歌仙の一人だが 確かな傳の歌はこの一首のみ。傳説的人物。
古今集・雜・983
花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に
小野小町 生歿年未詳。絶世の美女と言はれるが傳説的人物で實在が疑はれる。六歌仙の一人。家集に小町集がある。黒岩涙香に有名な評傳がある。
古今集・春・113
これやこの 行くも歸るも 別れては 知るも知らぬも 逢坂の關
蝉丸 生歿年未詳。傳説的人物。盲目で、琵琶の名手であつたと傳へられる。一説に蝉歌の名手ゆゑに蝉丸と名づけられたと言ふ。
後撰集・雜・1089
わたの原 八十島かけて こぎ出でぬと 人には告げよ あまの釣舟
參議篁 小野篁802〜852。この歌は、作者篁が隠岐へ流された時の歌である。和漢の文學に通じ、配流後二年で許されたのも、その文才ゆゑの事である。
古今集・羇旅・407
天つ風 雲の通ひ路 吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ
僧正遍昭 816〜890。俗名は良岑宗貞。天臺宗に歸依し、僧正に至る。六歌仙の一人。この歌は、宮中の年中行事である「豊明節會」の際の五節の舞姫を詠んだものである。
古今集・雜・872
筑波嶺の 峰よりおつる みなの川 戀ぞつもりて 淵となりぬる
陽成院 868〜949。第57代天皇。清和帝の皇子。精神の病のため奇行が多く、基經に位を廢された。筑波嶺は古代、男女交際の場として知られた。
後選集・戀三・776
みちのくの しのぶもぢずり 誰ゆゑに 亂れそめにし 我ならなくに
河原左大臣 源融 822〜895。嵯峨天皇の皇子。鴨川べりに河原院を營んだのでかう呼ばれる。
古今集・戀四・724
君がため 春の野に出でて 若菜つむ わが衣手に 雪は降りつゝ
光孝天皇 830〜887。第58代天皇。55歳で即位。聰明で信望が厚かつた。小松帝とも呼ばれる。
古今集・春・21
立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今歸り來む
中納言行平 在原行平 818〜893。平城天皇の皇子阿保親王の子。在原業平の異母兄。「馬のはなむけ」の宴席における歌。
古今集・離別・365
ちはやぶる 神代も聞かず 龍田川 からくれなゐに 水くゝるとは
在原業平朝臣 825〜880。阿保親王の子。六歌仙の一人。「在五中將」とも呼ばれる。伊勢物語の主人公「男」に擬せられる。「紅葉=錦」と云ふ良く使はれる喩へを採らず、紅葉を絞り染めに見立ててゐるところが新鮮な印象を與へる。
古今集・秋・294
住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ
藤原敏行朝臣 ?〜901?。古今歌風興隆期の歌人。空海と竝び稱せられた能書家でもあつた。
古今集・戀二・559
難波潟 短き蘆の ふしの間も 逢はでこの世を 過ぐしてよとや
伊勢 900年前後。伊勢守藤原繼陰の女。宇多天皇の后温子に仕へた女房で、天皇に愛されのちに行明親王を生む。晩年は不幸であつたらしい。三十六歌仙の一人。
新古今集・戀一・1049
わびぬれば 今はた同し 難波なる みをつくしても 逢はむとぞ思ふ
元良親王 890〜943。陽成天皇の第一皇子。大和物語に多彩な戀愛遍歴が傳はつてゐる。京極御息所なる天皇の女御との秘密の戀愛關係が露見した後、親王が女御に贈つた歌である事が詞書によつて判る。
後選集・戀五・960
今來むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな
素性法師 生歿年未詳。9世紀後半の人。俗名良岑玄利。遍昭の子。清和天皇に仕へたが、父の勸めで出家。この歌は、男性である作者が女性の立場になつて作つたものである。
古今集・戀四・691
吹くからに 秋の草木の しをるれば むべ山風を あらしといふらむ
文屋康秀 生歿年未詳。文屋朝康の父。六歌仙の一人。身の不遇を嘆く作が目立つ。この歌は言葉遊びの歌。
古今集・秋・249
月みれば ちゞに物こそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど
大江千里 生歿年未詳。漢學に優れる。
古今集・秋・193
このたびは ぬさもとりあへず 手向山 もみぢの錦 神のまにまに
管家 菅原道眞 845〜903。文人官僚で漢詩文に優れた。右大臣に至るが、藤原氏の陰謀に據り901年、太宰權師に左遷。903年に配所にて歿した。のち太宰府天滿宮に祀られ、學問の神樣として知られるやうになつた。
古今集・羇旅・420
名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな
三條右大臣 藤原定方 873〜932。正二位内大臣高藤の子で、醍醐天皇の延長二年(924年)に右大臣に任ぜられ、三條に邸宅を構へた事から三條右大臣と呼ばれた。和歌管弦に優れた。くるよしもがなの「くる」が「繰る」であつて「來る」でない事は、御撰集の詞書に女の許に遣はしけるとある事で判る。
後撰集・戀三・700
小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ
貞信公 藤原忠平 880〜949。關白基經の子。小一條太政大臣とも呼ばれた政治上の實力者で貞信公は謚。兄の時平と違つて、性格が温厚で、立派な人物であつたらしい。時平が醍醐天皇の命を受けて着手したものの未完のまゝ殘した延喜格式の撰を完成した事は高く評價されている。この歌は、宇多法皇が小倉山に御幸された際、子の醍醐天皇にも見せたいと言はれたので、法皇に代つて作者が詠んだ歌である(大和物語の記事による)。實質的に天皇に行幸を促す歌である。
拾遺集・雜・1128
みかの原 わきて流るゝ いづみ川 いつ見きてとか 戀しかるらむ
中納言兼輔 藤原兼輔 877〜933。藤原定方の從兄弟、紫式部の曾祖父。當時の風流人士の中心的存在であつた。三十六歌仙の一人。古今六帖に讀人知らずの歌として載せられてをり、契冲は「百人一首改觀抄」で兼輔の作に非ずとした。
新古今集・戀一・996
山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人目も草も かれぬと思へば
源宗千朝臣 ?〜939。光孝天皇の孫にあたり、臣籍に下つたが、不遇であつた。古今集時代に先行する寛平期の歌人。三十六歌仙の一人。
古今集・冬・315
心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花
凡河内躬恆 生歿年未詳。地位は低いが、紀貫之と竝び稱せられた歌人である。古今集選者の一人。正岡子規が「歌よみに與ふる書」で「此歌は嘘の趣向なり」と言つて罵つてゐる。
古今集・秋・277
有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり 憂きものはなし
壬生忠岑 生歿年未詳。忠見の父。古今集選者の一人。歌論書忠岑十體を著す。
古今集・戀三・625
朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に 降れる白雪
坂上是則 生歿年未詳。坂上田村麻呂の後裔。優れた歌人。蹴鞠の名手と傳へられる。
古今集・冬・332
山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり
春道列樹 ?〜920。下級の受領であつた。勅撰集に五首入集の外、目立つた活躍もない。夭折したらしい。
古今集・秋・303
ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ
紀友則 生歿年未詳。紀貫之の從兄弟にあたり、友則の方が年長であつたらしい。古今集選者の一人だが、完成前に歿した。
古今集・雜・909
誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松も昔の 友ならなくに
藤原興風 生歿年未詳。寛平期の歌人。わが國最初の歌論書「歌經標式」の著者濱成の曾孫。
古今集・雜・909
人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の 香ににほひける
紀貫之 868?〜945?。古今集時代の代表的歌人で。古今集選者の中心的存在であり同假名序を書いた。「土佐日記」の作者としても知られる。
古今集・春・42
夏の夜は まだ宵ながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ
清原深養父 生歿年未詳。清少納言の父元輔の祖父。寛平歌壇の優れた歌人であつた。
古今集・夏・166
白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける
文屋朝康 生歿年未詳。康秀の子。有名な歌合に何度か參加してゐるものゝ、勅選集入集は三首。
後撰集・秋・308
忘らるゝ 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな
右近 生歿年未詳。右近衞少将藤原季縄の女(妹とも)。醍醐天皇の后である藤原穩子に仕へた。後撰集時代の女流歌人。二句切れの歌であるのに注意。
拾遺集・戀四・870
淺茅生の 小野の篠原 忍ぶれど あまりてなどか 人の戀しき
參議等 源等 880〜951。嵯峨天皇の曾孫。出世は遅く、參議になつたのは六十八歳の時。「淺茅生の 小野の篠原 忍ぶとも 人知るらめや いふ人なしに」を本歌とする本歌取りの歌である。
後撰集・戀一・577
忍ぶれど 色に出でにけり わが戀は 物や思ふと 人の問ふまで
平兼盛 ?〜990。是忠親王の曾孫。光孝平氏。後撰集時代の代表的歌人。赤染衞門の實父と言ふ。
拾遺集・戀一・622
戀すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひ初めしか
壬生忠見 生歿年未詳。忠岑の子。十世紀半ばの歌人。歌合で活躍する。この忠見の歌と兼盛の歌とは、天徳4(960)年の「天徳内裏歌合」で「忍ぶ戀」の題の下に作られ、勝負を競つた。判者の藤原實頼は、甲乙附け難しとして列席された村上天皇の顏色を伺つたところ、天皇が「忍ぶれど」と繰返し口ずさんだので兼盛の歌を勝ちとした。敗れた忠見は非道く落膽し、食欲を無くして衰弱して死んだと「沙石集」に傳へられるが、事實ではない。後世では忠見の歌の方が高く評價されてゐるが、判者の實頼自身も後々まで、かの判定に疑問を抱いてゐたやうである。
拾遺集・戀一・621
契りきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 波越さじとは
清原元輔 908〜990。深養父の孫。清少納言の父。和歌所の寄人。「梨壷の五人」の一人。後撰集の撰集を行つた。
後拾遺集・戀四・770
逢ひ見ての のちの心に くらぶれば 昔は物を 思はざりけり
權中納言敦忠 藤原敦忠 906〜943。時平の三男。琵琶の名手で枇杷中納言とも。
拾遺集・戀二・710
逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし
中納言朝忠 藤原朝忠 910〜966。父は藤原定方(三條右大臣)。和漢の學に秀でる。笙の名手。
拾遺集・戀一・678
あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな
謙徳公 藤原伊尹 924〜972。謙徳公は謚。父は師輔。攝政・太政大臣にまでなつた。和歌所の別當。
拾遺集・戀五・950
由良のとを 渡る舟人 かぢを絶え ゆくへも知らぬ 戀の道かな
曾禰好忠 生歿年未詳。十世紀後半の異色歌人。丹後掾になつた爲「曾丹」と稱せられる。家集に「曾丹集」がある。清新な詠みぶりの歌が多い。
新古今集・戀一・1071
八重むぐら 茂れる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋は來にけり
恵慶法師 生歿年未詳。十世紀後半の人。播磨國(兵庫縣)の國分寺の僧で、佛典の講師。
拾遺集・秋・140
風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ くだけて物を 思ふころかな
源重之 生歿年未詳。平安中期の歌人。清和源氏。地方の徴官を歴任し、筑紫から陸奥まで旅した。
詞花集・戀上・210
みかきもり 衞士のたく火の 夜は燃え 晝は消えつゝ 物をこそ思へ
大中臣能宣朝臣 921〜991。神官の家柄。伊勢大輔の祖父。和歌所の寄人。梨壷の五人の一人。
詞花集・戀上・224
君がため 惜しからざりし 命さへ 長くもがなと 思ひけるかな
藤原義孝 954〜974。父は謙徳公藤原伊尹。子は三蹟の一人藤原行成。後少將と呼ばれた。天然痘の爲、若くして死んだ。
後拾遺集・戀二・669
かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを
藤原實方朝臣 ?〜998。右大臣師尹の孫。殿上で行成と爭ひ、暴力を揮つた爲、陸奥守に左遷されたと言ふ。
後拾遺集・戀一・612
明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき 朝ぼらけかな
藤原道信朝臣 972〜994。爲光の子。母は伊尹の娘。公任、實方と親交があつた。和歌に優れたが若死にした。
後拾遺集・戀一・672
嘆きつゝ ひとり寢る夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る
右大將道綱母 937頃〜995。藤原倫寧の女で、兼家と結婚した。美貌・歌才の持ち主。「蜻蛉日記」の作者。
拾遺集・戀四・912
忘れじの 行く末までは かたければ 今日を限りの 命ともがな
儀同三司母 高階貴子 ?〜996。成忠の女。高内侍。道隆と結婚し、伊周(儀同三司)・隆家・定子を生んだ。
新古今集・戀三・1149
瀧の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞こえけれ
大納言公任 藤原公任 966〜1041。頼忠の子。漢詩・和歌・管弦に優れ、「三舟の才」として知られる。平安中期の歌道の權威。嵯峨天皇により作られた名高い瀧が大覺寺にあつたが、公任の頃には既に涸れてゐた。「名こその瀧」として後世に傳へられる事となつたのはこの歌の爲。
拾遺集・雜・449
あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな
和泉式部 生歿年未詳。平安中期の女流歌人。大江雅致の娘。「和泉式部日記」の作者。冷泉院の皇子爲尊親王、その弟敦道親王との戀愛は有名。情熱的な歌風で知られる。保田與重郎に「和泉式部私抄」の著作がある。
後拾遺集・戀三・763
めぐりあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
紫式部 970頃〜1014頃。藤原爲時の女。宣孝と結婚、大弐三位を生んだ。「源氏物語」の作者。この歌の「月」は、舊友を月に見立てたもの。幼友達と久しぶりに出會つたが、七月十日頃の月が沈むのと先を爭ふやうにして歸つて行つた、と詞書にある。
新古今集・雜・1497
有馬山 猪名の笹原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする
大弐三位 藤原賢子 999頃〜?。紫式部の女。父は藤原宣孝。
後拾遺集・戀二・709
やすらはで 寢なましものを さ夜ふけて かたぶくまでの 月を見しかな
赤染衞門 生歿年未詳。平安中期の人。大江匡衡の妻。中宮彰子に仕へた。「榮花物語」正篇の作者と言はれる。呼び名は父・赤染時用が右衞門尉であつた事に由來する。この歌は姉妹の爲に赤染衞門衛門が代作したもの。
後拾遺集・戀二・680
大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも見ず 天の橋立
小式部内侍 ?〜1025。母は和泉式部。ともに一條天皇中宮彰子に仕へ 母に對し小式部と言ふ。この歌は、母和泉式部が夫に伴はれて丹後に下つた留守、歌合が行はれる事となり、母が代作してゐると噂されてゐた小式部を藤原定頼が揶揄つた時、小式部が定頼の袖を掴まへて即座に詠んだと傳へられる。小式部は若くして死に、悲しんだ和泉式部の歌が殘つてゐる。
金葉集・雜・586
いにしへの 奈良の都の 八重櫻 今日九重に にほひぬるかな
伊勢大輔 生歿年未詳。十一世紀前半頃の女流歌人。大中臣輔親の女。中宮彰子に仕へ、紫式部らと親交があつた。
詞花集・春。29
夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも よに逢坂の 關はゆるさじ
清少納言 生歿年未詳。平安中期の人。清原元輔の女。中宮定子に仕へた。「枕草子」の作者。詞書に據れば、藤原行成が戲れて言寄つた時にきつぱりと拒絶した歌であると言ふ。「鳥のそら音」は、「史記」にある孟嘗君が函谷關を突破した際の故事による。
後拾遺集・雜・940
今はたゞ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで いふよしもがな
左京大夫道雅 藤原道雅 993頃〜1054。道隆の孫。伊周の子。晩年まで不遇であつた。
後拾遺集・戀三・750
朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木
權中納言定頼 藤原定頼 995〜1045。大納言公任の子。和歌・書道に優れてゐた。四條中納言とも呼ばれる。小式部内侍を揶揄つた男だが、小式部の機知に驚いて返歌もせずに逃出したと言ふ。
千載集・冬・419
恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 戀に朽ちなむ 名こそ惜しけれ
相模 998?〜1068?。源頼光の養女と言ふ。夫は相模守大江公資。後に離婚。
後拾遺集・戀四・815
もろともに あはれと思へ 山櫻 花よりほかに 知る人もなし
前大僧正行尊 1055〜1135。源基平の子。山伏修驗道の行者として知られる。天臺座主・大僧正。管弦・書道にも優れてゐた。
金葉集・雜・556
春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ
周防内侍 生歿年未詳。十一世紀後半の代表的女流歌人。周防守平棟仲の女。官廷女房。人々が夜徹し物語をしてゐた時、眠くなつた作者が「枕が欲しい」と言つた時、手枕の腕を貸さうと揶揄つた男に對し、即座に歌で拒絶の意を示したものと言ふ。
千載集・雜・961
心にも あらでうき世に ながらへば 戀しかるべき 夜半の月かな
三條院 976〜1017。第67代天皇。二度の内裏炎上、病弱、道長の壓力と不遇な生涯を送つた。この歌は、退位直前の心境を詠んだ歌である。眼病の爲、目は殆ど見えなくなつてゐた。退位後、出家し、すぐに亡くなつた。
後拾遺集・雜・861
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり
能因法師 988〜?。俗名橘永榿。二十六歳頃出家。西行と並び稱せられる漂泊の歌人である。歌學書も殘す。能因歌枕の著者。旅をしないまゝした振りをして歌つた「白河の關」の歌で有名。
後拾遺集・秋・366
さびしさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも同じ 秋の夕暮れ
良暹法師 生歿年未詳。十一世紀半ばの人。比叡山關係の僧侶であつたらしいが傳未詳。晩年は大原に住んだ。宮廷歌人との交りもあつた。
後拾遺集・秋・333
夕されば 門田の稲葉 おとづれて 蘆のまろやに 秋風ぞ吹く
大納言經信 源經信 1016〜1097。源俊頼の父。和歌・漢詩・管弦に長じ、有職故實にも精通してゐた。「後拾遺集」を批判し、新歌風を開いた。
金葉集・秋・183
音に聞く 高師の濱の あだ波は かけじや袖の ぬれもこそすれ
祐子内親王家紀伊 生歿年未詳。十一世紀後半の女流歌人。紀伊守藤原重經の妻か。多くの歌合で活躍した。堀河天皇の時の艷書合せで、中納言藤原俊忠「人知れぬ 思ひありその 浦風に 波のよるこそ いかまほしけれ」に返す形で詠まれた歌。判定は紀伊の勝。ちなみにこの歌合の時、紀伊は既に七十過ぎであつた。
金葉集・戀下・501
高砂の 尾の上の櫻 咲きにけり 外山の霞 立たずもあらなむ
前中納言匡房 大江匡房 1041〜1111。江帥とも呼ばれる。博學多識で漢學・和歌・有職故實に通じてゐた。「江談抄」の著者。
後拾遺集・春・120
憂かりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを
源俊頼朝臣 1055〜1129。經信の子。院政期の代表的歌人。金葉集の選者。「俊頼髓腦」の著者。
千載集・戀二・707
契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋もいぬめり
藤原基俊 1060?〜1142。右大臣俊家の子。和漢の秀才。歌道では源俊頼と對立した保守派の第一人者である。俊成の師でもある。この歌は、子の僧都光覺を維摩會の講師にして貰ひたいと藤原忠通に頼んでゐたのに、その年もまた選に漏れたのを恨んで詠んだものと言ふ。
千載集・雜・1023
わたの原 こぎ出でて見れば ひさかたの 雲居にまがふ 沖つ白波
法性寺入道前關白太政大臣 藤原忠通 1097〜1164。攝政關白忠實の子。歌・詩・書に優れる。書は法性寺流の祖。崇徳天皇の御前で「海上眺望」の題で詠んだ題詠であると言ふ。基俊にその子僧都光覺の斡旋を依頼された人。
詞歌集・雜・380
瀬をはやみ 岩にせかるる 瀧川の われても末に あはむとぞ思ふ
崇徳院 1119〜1164。第75代天皇。保元の亂に敗れ 讃岐に流され崩御された。詞花集の勅命者。
詞花集・戀上・228
淡路島 かよふ千鳥の 鳴く聲に 幾夜覺めぬ 須磨の關守
源兼昌 生歿年未詳。十二世紀初め頃の人。源俊輔の子。名ある歌人ではない。この歌は「源氏物語」須磨の卷の記述に基く。
金葉集・冬・288
秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ
左京大夫顕輔 藤原顕輔 1090〜1155。顕季の子。六條家の祖。詞花集の選者。
新古今集・秋・413
長からむ 心も知らず 黒髪の 亂れてけさは 物をこそ思へ
待賢門院堀河 生歿年未詳。十二世紀前半の女流歌人。待賢門院に仕へた。出家後、西行と親交があつた。
千載集・戀三・801
ほとゝぎす 鳴きつる方を ながむれば ただありあけの 月ぞ殘れる
後徳大寺左大臣 藤原實定 1139〜1191。徳大寺家流の人。定家は從兄弟にあたる。「徒然草」十段にて鳶が來るのを嫌つて屋根に縄を張つた人として紹介されてゐる。
千載集・夏・161
思ひわび さても命は あるものを 憂きにたへぬは 涙なりけり
道因法師 1090〜?。俗名藤原敦頼。1172年に出家。十二世紀後半に活躍した歌人。
千載集・戀三・817
世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる
皇太后宮大夫俊成 藤原俊成 1114〜1204。定家の父。千載集の撰者。「古來風體抄」などの著者。家集に「長秋詠藻」がある。
千載集・雜・1148
ながらへば またこのごろや しのばれむ 憂しと見し世ぞ いまは戀しき
藤原清輔朝臣 1104〜1177。六條藤家顕輔の子。歌學書「奥義抄」「和歌初學抄」「袋草子」などの著者。
新古今集・雜・1843
夜もすがら 物思ふころは 明けやらで 閨のひまさへ つれなかりけり
俊恵法師 1113〜?。いづれも優れた歌人であつた源經信を祖父、俊頼を父とする。花林苑の主人。鴨長明の和歌の師匠でもある。この歌は、作者が女性の身になつて詠んだ歌である。
千載集・戀二・765
嘆けとて 月やは物を 思はする かこち顔なる わが涙かな
西行法師 1118〜1190。俗名佐藤義清。もと北面の武士で、後に出家した。旅の歌人で、私家集に「山家集」がある。新古今集に最多の94首が收録された。
千載集・戀五・926
村雨の 露もまだひぬ まきの葉に 霧立ちのぼる 秋の夕暮れ
寂蓮法師 1139?〜1202。俊成の養子となり、後に出家。新古今風の代表歌人で、新古今集の撰者の一人。
新古今集・秋・491
難波江の 蘆のかりねの ひとよゆゑ みをつくしてや 戀ひわたるべき
皇嘉門院別當 生歿年未詳。平安末期の人。崇徳天皇の后・皇嘉門院(藤原聖子)に仕へた女房。
千載集・戀三・806
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば 忍ぶることの 弱りもぞする
式子内親王 ?〜1201。後白河天皇の皇女。加茂の齋院。俊成の和歌の師である。新古今時代の代表的な女流歌人。
新古今集・戀一・1034
見せばやな 雄島のあま人の 袖だにも ぬれにぞぬれし 色はかはらず
殷富門院大輔 生歿年未詳。平安末期の歌人。殷富門院(式子内親王の姉)に仕へた女房。「松島や 雄島の磯に あさりせし あまの袖こそ かくはぬれしか」が本歌。
千載集・戀四・884
きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寢む
後京極摂政前大政大臣 藤原良經 1169〜1206。右大臣兼實の子。慈圓は叔父。家集に「秋篠月清集」がある。本歌取りの歌で、本歌として幾つかの歌が考へられる。
新古今集・秋・518
わが袖は 潮干に見えぬ 沖の石の 人こそ知らね かわく間もなし
二條院讃岐 生歿年未詳。平安から鎌倉にかけての歌人。源三位頼政の娘。宮廷の女房。後、出家した。この歌の表現が評判となり、「沖の石の讃岐」の異名で呼ばれる。
千載集・戀二・759
世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも
鎌倉右大臣 源實朝 1192〜1219。鎌倉幕府の三代將軍だが、政治的には無能であつた。萬葉調の歌人で、定家の和歌の師。家集に「金槐和歌集」がある。鶴岡八幡宮で公暁に暗殺された。
新勅撰集・羇旅・525
み吉野の 山の秋風 さ夜ふけて ふるさと寒く 衣打つなり
參議雅經 藤原雅經 1170〜1221。北家。蹴鞠の名手で飛鳥井家の祖。新古今集撰者の一人。
新古今集・秋・483
おほけなく うき世の民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖
前大僧正慈圓 1155〜1225。關白藤原忠通の子。天臺座主。家集に「拾玉集」がある。日本で最初の史論「愚管抄」の著者。
千載集・雜・1134
花さそふ 嵐の庭の 雪ならで ふりゆくものは わが身なりけり
入道前太政大臣 藤原公經 1171〜1244。姉は定家の妻。西園寺太政大臣とも言ふ。鎌倉幕府と近い關係にあつた。
新勅撰集・雜・1054
來ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 燒くや藻鹽の 身もこがれつゝ
權中納言定家 藤原定家 1162〜1241。俊成の子。小倉百人一首・新古今集・新勅撰集などの撰者。
新勅撰集・戀三・851
風そよぐ ならの小川の 夕暮れは みそぎぞ夏の しるしなりける
從二位家隆 藤原家隆 1158〜1237。新古今集の撰者の一人。定家と竝び稱された。
新勅撰集・夏・192
人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに 物思ふ身は
後鳥羽院 1180〜1239。第82代の天皇。承久の亂に敗れ、隠岐へ流された。新古今集撰集の勅命者。歌論書に「後鳥羽院口傳」がある。
續後撰修・雜・1199
もゝしきや 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり
順徳院 1197〜1242。第84代の天皇。後鳥羽院の第三皇子。父に協力して承久の亂を起したが、敗れて佐渡に配流、そこで歿した。歌學書に「八雲御抄」がある。
續後撰集・雜・1202

解説

奈良・平安・鎌倉の三時代の歌を集めたもので、全て勅撰集(古今集から續後撰集までの十代の勅撰集)に據る。萬葉集にあつた歌も全て再録された勅撰集に據つてゐる爲、オリジナルと異るテキストになつてゐるものもある。

小倉山莊の襖繪に百人の歌人の像が描かれ、それに添へて秀歌が書かれてゐた事から、小倉百人一首の名がある。「明月抄」の嘉禎元年五月二十七日のところに、宇都宮頼綱の依頼で定家が嵯峨の小倉山莊の襖に色紙型に書いた、と云ふ事が書かれてゐる。(……嵯峨中院、障子色紙形故、予可書之由入道懇切、……古來人歌各一首、自天智天皇依頼、及家隆雅經、入夜金吾示送……」)

かつては撰者は定家でなく頼綱ではないかと云ふ説もあつた。第二次大戰後、定家の撰である「百人秀歌」が發見され、そこで擧げられた歌が小倉百人一首と多數重複する事が判つた。その爲、現在、小倉百人一首は定家の撰であると云ふ事が定説となつてゐる。

排列は大體、時代順となつてゐる。

契沖が「百人一首改觀抄」で、全ての歌について排列の意味を考察してゐる。同書の順徳院の項には、天智天皇の歌を劈頭に置き、順徳院の歌を末尾に置いてゐる事について、秋の田の御歌は治まれる世の聲にして、百しきの御歌はかなしびて以て思ふこころを顯せり、と書かれてゐる。現在まで、大體この解釋が通用してゐるやうである。

江戸時代初期には、貝覆の遊びを應用したカルタ遊びが生れてゐるが、この頃既に小倉百人一首がもつぱら用ゐられるやうになつてゐたやうである。現在の競技會の形式は江戸時代末期に始まつたもの。