鬼を見た話

「鬼を見た」といふと、多くの人は、あまりにも突飛なその言葉を、笑ひもすれば、また怒りもするだらうと思ひますが、実際私は見たことがありますので、今日はひとつその話でもしてみたいと思ひます。

 確か私が十二、三の頃でしたから、明治二十一、二年のことだつたと思ひます。ある夏の日、瀬戸内の海を少し離れた私の郷里の小村へ、一人の旅人が訪れてきました。旅人は、村で賭博者として顔を売つてゐた亀七といふものの家へ泊つてゐました。

「この頃亀七のところに変な男が泊つてるさうだぜ。鬼の首なんかもつて」

「鬼の首。ほんたうかい、そんなこと……」

 こんな噂がすぐに村中に拡がりました。知合の誰彼と一緒に、私は父に連れられてその鬼を見に亀七の家へ出かけました。父は長く村の公の仕事に携はつてゐましたので、そんなことには便宜があつたやうでした。

 いづれは賤しい香具師の一人に相違なからうとのみ思つてゐたのに、会つてみると旅人は案に相違して上品な老人で、神主のやうに白い顎髯を長く胸に垂れてゐました。

 父が来意を告げると、老人は気さくに承知をしてくれました。そして取り出してきた真新しい白木造りの箱を自分の膝側に引き据ゑながら、こんなことを話しました。

 安藝の広島から太田川に沿うて、石見街道を北へ入つてゆくと、加計といふ小さな町へ出ます。代々そこに住まつて猟師稼業で生計をたててゐる二人の男が、ある日のこと、連れ立つて雄鹿原といふ石見境に近い山地へ入つてゆきました。途中路を迷つて深い森の中に踏み込み、木の根を枕に長々と寝そべつてゐる大きな獣のやうなものを見て、狙ひ撃ちにすると、深手を負つた相手は、がばと跳ね起きざま死に物狂ひに手向つてくるので二人はてんでに山刀をふり廻してやつと仕とめることができました。

「格闘の真つ最中額の角を見た時には、二人とも急に怖ぢ気づいてへなへなとなつちまつたさうですよ。全く無理のないことですね」

 語り畢ると、老人はものしづかに首箱の蓋に手をかけました。すると、その途端箱の中から折からの夏のうん気に蒸れたらしい不気味な、なまぐさい臭がむうと流れ出して、室中に拡がつてきたので、居合す皆は覚えず袖で鼻を抑へました。老人はもじやもじやと赤熊の毛で蔽はれた大きな首を持ち出して蓋の上に載せました。手先がぶるぶる顫へてゐるのを見ると、大分持ち重りがするらしく思はれました。

 好奇な目をかがやかしながら、覗き込むやうにして鬼の顔に見入つた私たちは、覚えずぎよつとしました。鬼退治──それがどんなにむごたらしく叩きのめされてゐようとも、人間の勝利の犠牲として、どちらかといふと痛快にさへも眺められさうな気がしてゐたのに、今、目のあたりそれを見ると、赤銅色の額、黒牛のやうな一対の角、万力を思はせる角張つたおとがひ、ややたるんだ瞼の下からどんよりと光る二つの眼、──さういつたものに鬼が持前の負けじ魂がいまだに強く動いてゐて、脅かし気味に人に迫つてくるものがあるではありませんか。

 私たちは怖ろしさに長くは見てゐられませんでした。めいめい口にこそ出さね、心の内では、これが鬼を見る最初で、そしてまた最後でもあることを願つてゐるやうでした。

 このことがあつてから二週間ばかし後のことでした。父は縁先の往にもたれて、その頃岡山で発行せられてゐた「吉備日日」といふ新聞に読み耽つてゐましたが、急に声を立てて私を呼びました。

「おい。こなひだお前に見せてやつた鬼の首だがね、あれは贋物だつたさうだよ」

「どうしてわかつたの、そんなこと」

「ここにそれが載つてるよ」父は新聞を指さしながら言ひました。「あの老爺め、はうばう持ち廻つてこの二、三日岡山でも見せ物にかけてゐたんださうだ。ところが観衆のなかにほんたうの鬼を見たことのある男が一人ゐたので、手もなく見破られたんださうだよ。やつぱり真実のものを見た人にはかなはんとみえるて」

「ほんたうのものを見た人には……」

 私は口の中で父の言葉をくり返しながら、次のやうなことを思つてゐました。

「もしか自分がほんたうの鬼を見ることができたなら、その次の折には、どんな贋物を見せられたつて、きつと石のやうに黙つてゐられるに相違ない」