制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
初出
闇黒日記 平成十七年八月五日
公開
2020-11-28

新村出全集の解説について

新村出全集第二卷で浜田敦と云ふ人が解説を書いてゐる。

本巻に修められた論文の中、いま一つのグループをなすものは、『国語問題正義』『国語の基準』の二単行書を中心とする、規範論的な立場からのものである。それらの多くは、先生が京都帝国大学を停年退官後、シナ事変が勃発し、さらに、太平洋戦争にまで発展した時期における、ナショナリズムの気運を背景にした産物であると言ってよい。云々。

浜田氏は、新村出の言語學研究を高く評價してゐるが、國字問題に關する發言を時局に迎合したものと看做してゐる。さらに、浜田氏は以下のやうに書いてゐる。

もっとも、国語問題、国語教育など、社会に直接かかわりのある事柄に、研究者が、関心を持つかどうかということは、必ずしも、時世の影響だけによるとは言えないであろう。それは、また、個人の年齢によっても、大きく異なり得るものである。言うまでもなく、言語、文字は、時間の経過につれて、変化するという性質を持っている。ところが、比較的若い時代には、人は、多く、そのような変化を、それとして肯定し、また、それに順応し得る立場にあるけれども、一方、高年齡になるにつれて、それとは反対に、その変化を否定し、それについて行けないような人が多くなるものである。つまり「昔のよき時代」に比べて、今度は、むげにあさましくなって行く、と観ずるのが、年寄の常であって、新しく生じた言語、文字の変化を、すくなくとも、その当初においては、「不正」とみなし、それが一般化し、社会のすみずみにまで浸透した後においてはじめて、しぶしぶ認めざるを得なくなるというのが一般的である。従って、国語国字問題などに対する立場においても、多く能率主義、合理主義を斥け、一種の精神主義に立って、ものを見ようとする傾向が強い。先生ご自身も、どこかで告白しておられるように、明治三十年代、まだ東京で「言語学雑誌」の編集に当り、時評などを執筆し、また、国語調査委員会に関係して、国語国字問題に言及される機会の多かった時には、先生も、それなりに能率主義、合理主義者であったはずである。

従って、先生が、戦争がはじまった頃から、国語国字問題などに関して、精神主義、あるいは、一種のナショナリズム的立場をとられたとしても、それが必ずしも時流に追随された結果であるとは断定しがたいのである。すでに齢い古稀にも近づいておられた時であり、それでなくとも、多くの人が、そのようなものの考え方に傾いて不思議のないお年だったのである。戦争が終って、時勢は一転し、アメリカの占領政策に乗じて、国語政策があからさまな能率主義に立って、強力にすすめられて行く中においても、先生の立場は、すくなくとも精神主義に立つという点では、変りはなかったのである。もっとも、ナショナリズム的発言が表面に出なくなったという変化は、やはり認めざるを得ないであろうが。

新村氏が馬鹿にされてゐるやうな氣がする。

浜田氏は「新村出の國字問題に關する主張は普遍性を持たない」と評してゐるのだが、かう云ふ人物に「先生」と言はれて、新村氏はあの世でどんな氣分でゐるのだらう。

浜田敦つて、あの濱田青陵の息子さんか何かですか。