辻邦生と大野晋の對談。
- 大野
- 旧かなというのは、筋が通っているんですね。なぜなら、旧かなは一語一語についてその拠り所を吟味してある。この言葉をこう書くのは、この文献にこうあるからなんだというふうに。ところが、新かなについては吟味してない。一語一語について、正式の表記が決まっていないのです。〈ず-づ〉〈し-ぢ〉の書き分けなんか、文部省に問い合せると、わからなければ、〈ず〉〈じ〉にしとけという(笑)。けれども本来、かな遣いというのは一語一語について決めなくてはならないものなんです。それを、戦後の国語改革では、一語一語を丁寧に扱っていません。
- 辻
- そうしますと、現在の段階では新かなを使うのは間違いであると……。
- 大野
- いや、必ずしもそうではないんです。フランスの場合、基本的に二十六字しかなくて、十六、七世紀ごろ表記が定着して、現在まで変っていない。発音と表記が不一致になっていますが、そのままなんです。ところが、日本語の場合、漢字かなまじりという特殊事情があって、漢字が意味を表わすので、一方、かなは表音的でありたいという傾向が強いんです。しかも、旧かなは千年も前を基準にしているものなので、吟味してあるとはいっても、現在では音と離れすぎて少し無理もある。だから、少しずつ表音的にずらしていくことは可能だと思います。ですが、改定をするんなら、一語一語をきちんと決めなくてはいけない。その条件のもとでなら、現代かな遣いというのは有効だと思いますね。
荒正人、梅棹忠夫、大野の對談。
梅棹忠夫は漢字制限論者。
- 大野
- さきほど梅棹先生から、漢字は非能率だっていう話がでたけど、具体的にはどういうことなんだろう。
- 荒
- 漢字の数が全体として多いばかりでなく、一字一宇は画が多くて書きにくいということですか。また、表音効率ということも大きい欠点でしょうか。
- 梅棹
- いえ。もう少し深刻な問題だと思うんですけどね。いますでに日本の情報、少なくとも印刷情報がかなり危機的な状態にきてる。これは事実だと思うんですよ。つまり、情報の量なら量がアメリカと比ベますと、けたが連うんです。要するに機械化がひじょうにむつかしいからですよ。行政的文書、研究上の文書、科学的なもの、産業上の文書はものすごい量になっているわけです。そういうものは全郡、現在の漢字体系を保存することによる非能率をこうむっているわけですよ。情報量をできるだけ圧縮して簡潔な内容しか盛り込めない。とても量がこなせない。
- 大野
- 情報量の違いの原因が文字の速度だとおっしゃるんですか。印刷の速度ですか。書く速度ですか。それともタイプライターで打つ速度ですか。
- 梅棹
- いろいろなものがあると思うんですよ。機械化をうまくやることができれば問題はない。私は最近、その可能性がないことはないと思っているんです。しかし結局、時間との競争なんだ。たとえば、さしせまった問題として、印刷工程の問題があると思う。文選工、植字工がいなくなってきている。いまの漢字を入れた体系でこのまま突破しようと思えば、たとえば植字工の特別養成機関をつくるとか、それにものすごい補給金を出すとかせんならん。要するにコストがかかるということです。つまり、文明のコストの問題で、それを払うかどうかということなんだ。
- 大野
- 私は、その問題に関してこう思うんですよ。漢字が、コンピューターならコンピューターに乗らない、どうしても扱い得ないものだと……。
- 梅棹
- いや、乗りますよ。
- 大野
- もし乗らないものであるんなら考えなきやいけない。だけど、たとえばソクタイプってありますよね。あのソクタイプをコンピューターに連動させて、コンピューターに漢字を教え込んで文脈でこういうのが出てきたら同音語でもこの漢語を打てと教え込む。そういうシステムを研究し、ソクタイプを打つことですぐさま活字にいけるようにすることができるんじやないか。
- 梅棹
- 技術的には何でもできるんです。間題はコストなんです。月まで飛んでいくことだってコストをかけりゃできるんだげど、それが一国文明にとって何を意味するかということは、よほど慎重に考えなきゃいかん。
- 大野
- しかし、梅棹さんのいわれる情報量っていうのは実際に必要な情報についてですか。
- 梅棹
- だからね、問題はそのへんの判定にかかってくる。つまり、情報いらんという文明ならよろしい。アメリカとかヨーロッパとかと日本が競争しないというならもうかまわないです。もうこれでよろしい。そりゃ、競争をおりるという手もあるんですよ。ある種の鎖国ですね。その手はあるんです、文明として考えれば。けど、現実としてそれはできないでしょう。
「コンピュータで漢字を使ふコスト」は現在全くかからない。良い時代である。