大野晋の『日本語の起源』は、日本語と云ふ觀點から日本人の起源を考察するのに參考になる。舊版と新版では内容が全然違ふので、兩方揃へると良い。
舊版の方が、扱つてゐる内容が廣いので、記述の古いのに注意すれば參考になる部分は多い。
「日本の東部と西部と」で、大野氏は日本の東西に樣々な差異のある事を指摘する。
- 「しなければ」と「せねば」、「行かない」と「行かん」、「しない」と「せん」、「雨だ」と「雨ぢや」「雨や」、「白く」と「白う」、「受けろ」と「受けよ」と云ふやうな、二つの對立した表現の境界線は長野県の西境を通るといふ點で一致してゐる。
- 「拂つた」と「拂ふた(ハロオタ)」、「買つた」と「買ふた(コオタ)」との對立は、新潟件から富山縣・石川縣・福井縣の南境と、岐阜県の北西の縣境を廻つて伊勢灣に入つてゐる。
- 本州東部の方言は、子音が強くて長い、母音が弱くて短い、といふ發音上の傾向を持つてゐる。……これに對して西日本の方言は、一般に子音が短く弱く、母音が長くて、東部方言よりは母音的な言語である。……
- およそ日本語のアクセント大系は、東京式と京都式との二つに大きく對立してゐるのだが、その東西の境界線が、……岐阜縣・愛知縣と、富山縣・石川縣・福井縣・滋賀縣・三重縣との境界線上を走つてゐる。
- ……社會形態の上からも、東部日本と、西部日本とには、いろいろな相違點がある。東部日本には、本家・分家の、上下主從の關係が色濃く行はれてをり、父系の祖先を共同にし、結婚や財産に關しても本家の指圖を受ける風習をもつところが多い。かうした家柄を重んじる東部日本の風習に對して、東海地方、近畿より西の西部日本では、部落全體の男子が年齢によつて階級に分けられ、部落の男子は、一定の年齢に達すると、若者組に入れられ、年齢とともに上の組に入つていく風習がある。ここでは若者宿とか寢宿とかが發達してゐる。この二つは、きつぱりと東西に分離できるものではなく、異論もあるが、本家・分家の風は東部日本に、年齢階級の風は西部日本に多いと民族学者岡正雄教授は記されてゐる。
方言についての東西の對立は、たまたま最近になつて發生したものとは思はれない。それは……キリシタン・バテレンの人々の時代にも、明らかに認められてゐたことである。……ジョアン・ロドリゲスの『日本大文典』に、だいたい次のやうに書いてある。
- 三河から日本のはてに至るまでの東の地方では一般に物言ひが荒く、鋭くて、多くの音節を呑み込んでしまふ。また、これらの地方の人々相互の間でなければ理解されないやうな、この地方獨特で粗野な語がたくさんある。
- 良う、甘う、緩うなどの代りに、白く、長く、短くなどのやうにくで終る形を用ゐる。
- 拂ふて、拂ひての代りに拂つて、習ふての代りに習つて、喰ふての代りに喰つて、買ふての代りに買つてを用ゐる。借つての代りに借りてを用ゐる。
- 打消にはぬの代りにないを用ゐる。
- ……
かうした東西の對立は、さらにさかのぼつて、奈良時代の日本語についても確かめることができる。……万葉集に、東歌、防人歌が載せられてゐるが、それの言葉の研究から、今日の本州東部方言の由つて來るところは、既に奈良時代に明らかな形をとつてゐたことがわかる。
それぞれ、言語的に、文化的に特殊の相を見せてゐる、と大野氏は書いてゐる。
奈良時代に見られた第一・第二・第三のアヅマの境界線は、たまたま奈良時代に形作られたものではなく、それよりもはるか昔の、さまざまな政治史的、文化史的な出來事の結果、當時において、さうした顕著な境界線を形成してゐたのである。p.65
彌生式土器が中部地方に廣まつたのは、彌生式前期の終りになつてからであり、
結局彌生式前期の文化は、その終りころ第二のアヅマの半分まで入つたにとどまり、第一のアヅマに入らなかつた。
アヅマの地方は、先行文化である繩文式文化の傳統が強くて、新しい彌生式文化の刺戟を得ても、たやすくそれを迎へ入れなかつた、と書いてゐる。
かうした彌生式時代の初期・中期を通ずる東西の對立は、その時に至つて突然成立したものだらうか。それ以前の、つまり縄文式時代のさまざまの出來事の結果ではなからうか。、と大野氏は書いてゐる。
現在の日本人の人類學的な調査の結果は、東部日本と西部日本とに對立のあることを示してゐる。言語的にも東部日本と西部日本とは現代において相違を持ち、それが奈良時代まで、さかのぼることも明らかである。それ以前の彌生式・縄文式時代の文化についても、……やはり相違・對立が見出される。……そして、もし、だいたいの推測をあへてするならば、縄文式時代を通じて、東部は東北シベリアと深い關係がありさうであり、西部は南方と深い關係がありさうである。これは日本語の由來を考へる場合に必ず考慮に加へるべき重要な事柄であるに相違ない。
母親の權利が大きかつた母系制の時代があつたこと、それは南方系の文化であること、日本の神話は南方の神話と類似する點が多いこと、縄文時代の拔齒の風習が南方的な習俗であること、入墨やお齒黒の習慣も南方的であること──などから、
日本文化における南方的要素は、絶對に否定できないものである、と斷言してゐる。
それは西部日本に色濃く廣がつてゐるとも言つてゐる。
文化は決して文化だけ遊離して傳はつていくものでなく、それに伴ふ文化がある。はじめは單語が傳はつていくに過ぎなくても、傳はる文化の力が非常に強力である場合や、人間の渡來を伴つてゐる場合は、やがて言語の體系全體を變革してしまふこともある。これほど西部日本に南方的な色彩が濃く存在してゐるものであるならば、何か南方の言語に、日本語の祖先となるやうな言語が存在してゐて、それが日本に渡つて來たと云ふ事が、あつたのではないか。われわれは次にそれを探索してみなければならない。
文法體系、母音調和、代名詞、文法語彙など、言語的にはさまざまの類似と對應を示しながら、朝鮮と日本との間には、文化的にかなり大きいへだたりがある。
『日本語の起源』新版は、日本語とタミル語(インド南部で話されるドラヴィダ語族の一つで非常に古い)の比較研究書で、かなり專門的になつてゐる。
大野氏の結論によると、日本語とタミル語は以下の點が共通する。
相違點は以下の通り。
大野氏は相違點をかう説明する。
日本にはオーストロネシア語族(ポリネシア語族の一つか)系の音韻體系(4つの母音)を持つ基層言語があり、そこにタミル語の語彙がかぶさつた。
そしてタミル語と日本語の中繼地點に朝鮮語があつたのではないかと大野氏は言つてゐる。
タミル語(ドラヴィダ語)と朝鮮語には400語の對應語がある。この「對應」と云ふ概念が「一致」と云ふ概念とは異るものである事を理解してゐないと、大野氏の説を正當に評價する事は出來ない。
詳しい解説は大野氏の著書に當られたい。簡單に言ふと、タミル語の或種の語が一定の原則に基いて日本語の或種の語に體系的に變化してゐると看做せる場合、それらの語には對應關係が見られる、と大野氏は言つてゐる。
一方で、服部四郎氏は、大野氏の「音韻對應の法則」について認識・理解は不十分であると批判した。
安本美典氏は、日本語と或言語との間に系統的な關係があるかないかを議論するには現状、以下のやうな問題がある、としてゐる。『日本語の成立』(講談社現代新書506)
どれだけの語彙の範囲で比較するのかが決められていないこと
どのような語を比較すべきかの客観的基準が示されていないこと
どれだけの量を偶然以上のものとみなすかの客観的基準が示されていないこと
どのようなばあいに語の形(音)が一致または類似または対応しているとするかの客観的基準が定められていないこと
どのようなばあいに語の意味が一致しているとするかの基準が示されていないこと
ただし、安本氏の大野説批判には、大野氏が朝鮮語やインドネシア等の諸言語と日本語との間の關係を重視してゐる、と云ふ思ひ込みに基いたやや的外れに見える批判がある。大野氏は、『日本語の起源 舊版』で、それらの言語と日本語との關係は薄い、と述べてゐる。
大野氏のドラヴィダ語・タミル語との「出合ひ」は、『新版』でドラマティックに語られてゐるが、それだけに妙に「トンデモ」臭い氛圍氣がある。また、大野氏は、「新年の豊作祈願」に關する儀禮を採上げ、南インドの「ポンガル」なる語と、日本の青森の行事で聞かれる「ホンガホンガ」なる掛け聲との間には關係がある、と殆ど斷定的に述べてゐるが、ちよつと短絡的な解釋であるやうに思はれる。
大野氏の言つてゐる事を、頭から信じ込んでしまふのは危險である。日本語の起源については、今のところ、まだ定説はない、と考へて置くのが妥當だらう。大野氏の學説には、反對意見もあるが、贊同する意見もある。現状、日本語・タミル語同系説は、まだ定説として認められてゐない、と言へる。