まず最初の間題点は、生徒の、「なぜ文法なんかやるんだ」という疑問です。「文法なんかなくったって、学ばなくたって、ちゃんと話せるじゃないか。だから、文法なんて要らないじゃないか」と考える生徒は、もちろんたくさんいると思います。そういう生徒に対しては、こう答えたい。
インドでは、字を知らない人のほうが多い。字を知っている人は人口の二割しかいない。十人のうち二人は字が読めるけれど、あとの八人は字が読めないという状態です。アメリカでは人口の二割が文字を読めないといわれています。では、その人たちは文字を知らなければ言語生活を営むことができないかというと、そんなことはない。現にちゃんと大人になって、いろいろな日常の会話をし、日常の生活をやっていますから、何も文字など学ばなくてもいいと考えられるでしょうか。
しかし、すぐおわかりのように、文字が読めれば新聞を読むことができる、新聞を読むことができれば、世界の情勢に関するいろいろなデータを見て考えることができるし、内容を忘れたときにはもう一度持ち出してきてそれを見て、自分の判断を形づくることができる。もちろん本が読めることによって、物事を詳しく認識する、あるいは推理する。その材料を読むことができる。字が読めなくても日常生活ができるから、字を読む必要はないとは言えない。これは日本ではどなたでもおわかりになると思います。
では、文法を知らなければ言語は理解できないのかという問題があります。それについてちょっと考えてみます。例えば我々が文法を習わなくても、日記を書くことはできるし、場合によれば手紙を書くことだってできる。では文法を学ぶとはどういうことか。さっきの英語の例をとってみれば、英語の文法では英語の文章を理解する時に、こういうバターンがあるということを知っていることによって、自分にとって難解な文章をちゃんと読むことができるということがある。文章を書く場合にも、そういうセンテンス・パターンを覚えていて、それに従って書けば、文法に外れない文章を書くことがかなりできるようになるということがある。だから、日本語のセンテンス・パターンを文法によって学ぶ。そして、そういうことを知った上で文を見れば、ああ、日本語の文章というのはこういうふうにできているのか、英語とはここが違うんだということがわかる。それぞれの人がそういう勉強をしていれば、文章をきちんと組み立てることができるし、人の文章をきちんと読み解くことができやすくなる。また、古文の文章を読もうとした場合、文法に従って読むとわかるというふうになり得るはずなのです。つまり文字を知れば多くの知識を正確に得られるように、文法を学ぶことで、文章の理解が確実になるわけです。
だが、殘念な事に、日本語の文法は、現代文であつても古文であつても、確立せられてをらず、文法を教へる側の國語教師も文法を信頼してゐない、それゆゑ生徒もまた、文法不信に陷つてゐる、と大野氏は書いてゐる。