小説に用ふる天然

天然を小説の背景に用ふるのは、作者の心持ち、手心一つでせう。天然を作中に入れて引き立つ場合もあれば、入れなくても濟む場合もある。私はどちらとも言ひかねます。

現にゼーン、オーステン女史の如きは、其の作中に天然を用ゐたところがない樣に記憶してゐます。全く人間ばかりを畫いて居たかと思はれる。トマス、ハーデー氏の如きは、天然を背景に用ゐて居るが、それは、ウヱツセツクス附近の光景に限つたもんで、其地方的特色がハツキリと浮び出て居る。同氏の小説は、一名ウヱツセツクス小説と言はれて居る位で、其背景に用ゐた天然が、巧みに作中にある、人物の活動や、事件の發展を助けて居るやうです。だから此人の作からは殆んど天然を切り離す事が出來かねる位です。スチブンソン氏も亦、其の作中に、天然を用ふる側の人で、背景の趣が如何にも繪畫的に鮮明に見えます。而して其の天然は靜的よりも、動的の方面が多く、又それに深い興味を持つて居るやうです。即ち風の吹きすさむ有樣や、雨の降りしきる光景を、さながら寫し出すことが上手である。而して、其の觀察力は頗る神經的に鋭敏で、細かいところも脱さぬ爲めにいきいきした感じを與へます。全體を通じて、その溌剌たる才氣と、眼の好惡の極めて鋭い處を現はして居るやうです。

コンラツド氏になると、其の小説の中に天然を描くことが、人一倍好きな所が見えます。而して、その背景に、多く海を用ふるのは、氏が若い時から船に乘つて朝晩、海上の光景に親しんだ影響にも依るのでせうか。其作中には、舟火事、難船、航海、暴風雨などを細かく寫したところに、一種獨特の筆致が見えるし、作物の上に、多少の色彩を加味するやうにも思へるが、天然の活動を描く方に氣を取られ過ぎて、ともすると、主客顛倒の現象を呈する事があります。

メレヂス氏の場合には、其の戀物語などの背景として、それにふさはしい詩的な光景を描くことがあります。一口に言ふと、氏の書き方は曲つたねぢくれた書方ですが、自然に對する強烈な感じを、色や、匂ひなどの微妙な點に現はして、詩的な戀物語めいた小説の背景に、ふさはしいやうに出來上つて居る。且つ氏は、普通の物象を普通以上に鋭く濃かに畫いて、強い印象を與へんとして居るやうです。

之を概括すると、ゼーン、オーステン女史は、作中に天然を用ゐないでも、巧に纒まつた作を出して居りますが、コンラツド氏に至ると、天然に耽るの結果、背景に取り入れた天然の爲めに、却つて一篇の作意を打壞はして居る事があるやうです。他の三氏は、此の中間をいつて、天然を背景に用ゐて、適當の調和を得て居るのみならず、其の作意をも助けて居る點があります。して見ると、天然を作中にとり入れるについては、よいとも、惡いとも言へない。畢竟は、其の時と、場合と、事柄とを考へて、適宜に用ふるの外はありますまい。