「国母」の語についての四回の投稿にさきだつて、四十三年の四月中の『読売』紙に、嶺雲は「無当語」と題して、をりをりの感想を寄せてゐる。そして四月十二日号掲載の一文においては、学生の学力低下の問題を取上げ、その対応策として、小学校の程度をいつそう高むべきことを主張してゐる。漢字を削滅し、略字を正字として教へ、新仮名遣ひを授けて、児童の頭脳を少しでも軽からしめようとすることにこれ努めてゐる今日、教育者の諸氏からは、嶺雲の主張などは、時代の逆行を図るものだとして、定めし反対意見が唱へられることであらうが、私などの旧教育で固められた人間は、嶺雲のいふところに、三斗の溜飲の下る思ひがする。あるいは現代の有識者中にも、万人の内の何人かは、嶺雲の主張をよしとする人もありはせぬだらうか。その全文をもここに載するならば、次の如くである。
一方には学生の学力不足の問題あり、一方には修業年限短縮の問題あり、此の相容れざる両問題を如何に調和すべきか、刻下所謂教育家なる者が頭を悩しつゝある者は是也。然れ共吾人を以て観れば、此の解決は甚だ易々たり。何ぞや。根本に遡つて、小学の程度を高むること是のみ。今日の職業的教育家は余りに西洋の直訳的教育学の空理に拘泥す、彼等は児童の脳力を太甚だ低く観に過ぐ。彼等は生きたる人間の頭脳には活きたる弾力あるを忘れ、何事をも平易に平易にと教ふることが、教育の根本義なるが如く信じ、竟に是がために児童の脳力が易きに忸れて、却て其反撥力を萎靡し去ることを識らざる也。児童の脳力は彼等が迷信する如く、爾く薄弱なるものに非ず。孤児が言語に習ふの、驚くべく霊活なるを見よ、初等教育に在りて即ち此の撥刺旺盛なる模倣力記憶カを利用して、寧ろ児童に注入すべき時代也、児童は等しく模倣する也、記憶する也、成人の者が其自己の理解的能力より計較して難とし易とする所も、児童より見れば、別に何等の険易を其間に認めざる也。若し否らずとするも、人は難きを冒すに興味を感ず、児童に於て殊に然り、今日の如く、五十音といろはを授くるに一年を費し、四年の間に僅に漢字の数百字を習ふに止まらしむる緩慢極まる教育法は、寧ろ児童をして倦怠の情を生じ憤悱の志を失はしむる者、是れ児童の脳力を鍛錬せずして寧ろ荒弛せしむる所以也。余りに卑近平易なる者を教へて児童の自啓自発を懈らしむるの弊は、延いて全脳力の活動を鈍くし、理解、判断、応用等の諸能力の発育を挫くに至らざれば己まず。彼の中等教育以上に於ける所謂学力不足の禍根は実に伏して焉にある也。即ち小学校の課程を高尚ならしむるには、一方に於て学力不足の問題を解決すると共に一方に於て又修業年限短縮を解決し得る所以に非や。