制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2016-01-27

『書物』

森銑三・柴田宵曲の共著。昭和十八年にもと版が出て、昭和二十二年に増補版が作られた。

正漢字正かなづかひ。


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書名は簡潔を旨としたいといつたが、それに附けても私等は漢字の便利なことを痛感せざるを得ぬ。漢字といふものに依つて、簡潔にその内容を表現することが出來る。そして一目してその書を見出すことも出來る。それは象形文字のありがたさである。

音標文字たる横文字ではさう簡單には行かない。勢ひ書名よりも著者名を重んじて、カードの如きも著者名カードを主とすることとなる。しかし漢字に依つては古人は書物にも巧みな命名をしてゐるのに、漢字の素養が衰へて、書名に限らず、何の名前の附け方も、おしなべて拙劣になつて來てゐる。それでゐて却つて漢字を厄介物視して、わが國が永久に漢字に呪はれてでもゐるやうに考へようとしてゐる。それはどういふものかと思ふ。

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木版本を讀まなくては、人間に重厚な味が出來ないといつた人がある。新刊本は現代人を對象として作られてゐる。木版本は過去のものである。それだけに取りつきにくい點もあらうが、それを敢へてして、その中から自己の攝取すべきものを攝取し、棄つべきものは棄てる。さうした直接的でない書物も讀み、現代に必要の乏しい知識や言説にも接したりする間に、その人に幅や深みが加はつて行くのではあるまいか。木版本を讀まなくては人間に重厚味が生じないといふ一語は、確かに一面の眞理を道破してゐる。

活字本で育てられて來た人は、草體の文字を知らず、變體假字を知らぬ。活字本から急に木版本に移つた時に取りつきにくい感じに打たれるのは止むを得ないが、多少の草體の文字と變體假字とを覺えるくらゐは、外國語の學習などに較べたら實に何でもないことである。強ひてそれを覺えようとしないでも、見馴れるに從つて何でもないことになる。要するに接觸する機會を多くして、見馴れてしまふまでのことである。或婦人は尋常二三年で小學校を廢めさせられたが、家に小倉百人一首が二三本あつたところから、暇々にそれを互に見合せて讀んでは、文字を覺え、歌をも覺えたとのことであつた。志さへあれば、方法は自ら見つかるのである。しかしそれにしても小學校の上級あたりで、多少の草體の漢字や、變體假字をも教へて置く必要がありはせぬだらうか。草體の漢字を知らぬために、近頃は勝手な略字を拵へて、芸の字を書いて藝の字に讀ませたりする。原稿に「芸草」と書いたら、植字工がそれを「藝草」としてゐたのに、私は苦笑した。少しは草體の漢字や變體假字にも親しみを持つて、それを頭から讀みにくいものと思込ませぬやうにしたい。

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書誌

『書物』表紙
昭和廿三年一月廿日 發行
白楊社