制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2016-01-28

『佐藤信淵――疑問の人物――』

正漢字正かなづかひ。


千萬人が見て白いといはうとも、私の眼にどうしても黒く映ずるものならば、私はありのままに黒いといはう。私は何よりも先に自己に忠實でありたい。またさうあらねばならぬ。

事變後の社會に行過ぎが多い。事象を正しく見ようとせず、表面的に附和雷同して、一時を糊塗して行かうといふやうな浮薄な傾向の目に附くのにも顰蹙せらるゝものがある。一體に腰の浮いたやうな状態にあるのが好ましからぬ。私等はもつと著實でありたい。

行過ぎの弊は、史上の人物の見方までに附いて廻つてゐるのであらうか。その人を如實に見ようとしないで、好みの形に勝手に拵へて、それを無際限に持上げて行つたりする。その甚しい例の一つに佐藤信淵がある。

信淵を以て、近世日本の生んだ一大偉人とし、大先覺者とし、大經綸家とし、大思想家とし、大學者とし、憂國の志士とする。つひには國民全體の儀表としてまでこれを仰がしめようとする。まことに底止するところを知らぬ状態にある。

然も信淵に對して私の見るところは全くこれと反する。信淵の如き人物を國民の崇敬の的ともするに至るならば、國民道徳の上からもゆゝしき結果が生じはせぬかと危惧せられる。依つてこゝに一書を著して、私見を率直に披瀝して、江湖の批判を仰ぐこととした。

私の信淵觀は、先入觀念に捉はれて、信淵をあくまでも偉大な人物として見ようとする人々には、甚しい不滿を買ふかも知れない。しかし私は論據のない漫罵を敢へてして、自ら快しとする者ではない。一々證據を押へて、私としては努めて控へ目に筆を進めたつもりである。虚心坦懷に本書を一讀して、私のいふところを素直に受入れ、それに據つて從來抱いてゐた信淵觀を是正せらるゝ人々も、必ずや多々あるべきことを信ずる。

但しなほまた私の言説に服することを得しないで、信淵その人を強ひて擁護しようとする人があるならば、他に實證を求めた上で、幾らなりとせらるゝやうにと願つて置かう。第一に信淵は、諸侯のために富源を開發するところが多かつたといふ。それは信淵自ら筆にし、從來の信淵崇拜家の等しく認めるところであるが、いつ、いづこに於ける、いかなる事業がそれに該當するのであるか、先づその一事だけでも解決していたゞきたい。私の納得の行くやうに、具體的にそれを明示していたゞきたい。始から主觀で事を左右しようとするやうな態度に出て、單なる辯護のための辯護を試みたりするのには、私は耳を假す必要を認めない。

人物に對する見方は、これを多數決で極めたりなどはせられない。これまでの行きがかり上、今後も信淵を支持しようといふやうな人々がいかに多數に上らうとも、私は少しも驚かないであらう。本書の所説を駮するならば、私の擧げた例證を根本的に否定し去るだけの一層強力な證據物件を入手して、私の頭上に一大鐵槌を打下すことをすべきである。

……

書誌

『佐藤信淵』カヴァ
昭和十七年十月十五日發行
今日の問題社