制作者(webmaster)
野嵜健秀(Takehide Nozaki)
公開
2001-08-27
最終改定
2008-01-03

「大西郷の一言」

司馬遼太郎が小説で明治と云ふ時代を禮讚する一方で、明治時代の偉人を合理主義的に批判するのが現代の流行である。前者の立場は右翼の立場で、後者の立場は左翼の立場だが、何れにしても、時代の評價から人物の評價を引出してゐる點で、具體性に缺け、觀念的な禮讚や非難に陷る傾向を示してゐる。この種の評價の仕方に、我々は警戒する必要がある。

森銑三の人物評

森の人物に關する論攷は、文學的なものだが、それを單純に文學的と言つて切つて捨てて良いものであらうか。成程、所謂科學的・所謂實證的な研究でない事は認めて良い。しかし、だからと言つて、單純に文學的な評價を「認めない」のは、正當な判斷だと言へるだらうか。

森が西郷隆盛について書いた文章がある。

 明治初年の宮中の改革は、西郷一人の仕事ではなかつたが、そこには西郷の意図の最も大きく動いてゐるものがあつた。まだ一少年におはした明治天皇に、野武士のやうな荒削りの人々を接近せしめて、宮中に剛健な気分を漲らせたことなど、今日から考へても、愉快に堪へないが、さうした思切つた改革は、西郷が在つて、始めて成し得たものであつた。旧幕臣の山岡鉄舟を推薦したのも西郷だつたといふが、西郷には、もとより薩長の幕府方のなどといふ観念はなかつた。そして己れ自らもまた教育者として、天皇に親近し奉つたやうに思はれる。

 一日、天皇が馬場で馬術の御稽古を遊ばされてゐた時に、馬から落ちて、思はず知らず、痛い、と仰せられた。普通の役人達だつたら、飛んで行つて御起こし申上げて、御怪我は、御痛みは、などといふべきところだつたらうが、御一緒に馬を走らせてゐた西郷は、さうした態度に出なかつた。馬上から天皇を見下ろして、痛いなどといふ言葉を、どのやうな場合にも、男が申してはなりませぬ、ときつぱり申上げた。

 天皇は、その後にも、この西郷の一言を、一生御忘れにはならなかつた。最後の病床に在らせられた時にも、つひに苦痛を御訴へにはならなかつた。西郷の教訓を、終生御服膺になつたのである。いつのことだつたか、西郷からさう教へられたと、西園寺公望に御話なされたことがあつたさうであり、西園寺さんは、それを人に語つてゐる。

 西郷の明治天皇に親近し奉つた年月は、長くはなかつたのであるが、天皇は後々までも、折に触れては、西郷といふ型の大きな人物を御回想になつてゐたやうに拝せられる。西郷は生きた教育者でもあつたのである。明治天皇を御感化申上げた人物としては、第一に西郷を挙ぐべきではあるまいかと思はれる。

これを讀めば、「明治天皇」は暗殺されていた!!等と云ふ主張が世迷ひ事以外の何物でも無い事は理解出來よう。もつとも、その種の珍説は、常識のある人間には最初から信用出來ないものである事は判るものである。

以下は、竹下義朗なる人物の「『明治天皇』は暗殺されていた!!」なる説からの引用である。

以上、即位前と即位後の明治天皇(睦仁親王)を比較してみましたが、誰が見ても、同一人物とは思えません。即位前、虚弱体質で臆病で字が下手で女官と遊んでいた「睦仁親王」と、即位後、相撲で相手を投げ飛ばす程の巨漢で字が上手く乗馬もこなした「明治天皇」。これらの事実から、「睦仁親王」と「明治天皇」が「別人」であったと考える方が、むしろ自然では無いでしょうか? これは一体どう言う事なのでしょうか? 考えられる事はただ一つ。つまり、睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位したと。そして、睦仁親王は父・孝明天皇同様、岩倉具視一派によって暗殺されたのだと。

竹下は、明治天皇が、開化以前と、それ以後とで、まるで別人のやうであるから、「別人だ」と斷定してゐる。實に單純で明快な議論である。

もちろん、「さう考へれば納得出來る」レヴェルの主張であるが、積極的な證據は何一つ無いし、そのやうな場合、反論に對して自説が決定的なものであるかのやうに居丈高に應答する事は許されない。竹下は茲で、まるで自分が見てきたかのやうな風に話をしてゐる。ところが、その主張は、取材を經た上での報告でなく、頭で考へただけの臆測に過ぎない。だから、竹下の主張は、歴史學的に何の價値も無い、所謂「トンデモ學説」でしかない。

「さう考へれば納得出來る」と云ふ竹下説であるが、實際には「さう考へなくても良い」のであり、それは森氏の文章を讀んでゐる人間ならば、理解出來よう。

明治天皇が別人のやうになつたのは、西郷をはじめとする多くの人物の感化を受けたからだ、と考へる事は可能である。同一人物が、人の感化によつて、まるで別人のやうに變る事がある――そこには何の不自然な點もない。睦仁親王とすり替わった「何者」かが、「明治天皇」として即位した、等と、竹下氏のやうに、極端で短絡的な考へ方をする必要はない。そもそも「自然」「不自然」と云ふ素人判斷を根據に、安易に理論を組立てるものではない。

文學的な物の見方をひたすら排斥するのが現代の風調だが、しかし、文學的な見方には極めて重要な意義がある。それは、文學が人間に對する深い理解を前提とする爲に、常識に基いて、人間がしでかさないやうな事はあり得ないと言ひ、人間がなし得る事はあり得ると言切る判斷が出來る、と云ふ事である。竹下説のやうな珍説が出現するのは、人間の理解が極めて淺薄であるところに原因がある。

同じ一人の人間も、成長し、優れた教へを受ける事で、時期によつて大いに變り得る。この事を知つてゐれば、單純に或時期の明治天皇と別の或時期の明治天皇を「別人」だと極附ける竹下の態度を「をかしい」と言切れる。竹下説を珍説と斷定するのは、人間に關する常識があるからであり、この種の判斷が文學的な判斷である。「斯うした文學的な判斷は、文學的な判斷であるがゆゑに、無意味で、無價値であり、反論として成立たない」等と極附けられるとしたら、その種の非難はをかしなものだ。理窟の上であり得ても、常識としてやらない、と云ふ事は、人間である我々には當り前に「ある」事だ。我々は人間の理解に基いた文學的な判斷を、常識的に出來るやうになるべきである。

それにしても、竹下は右翼であり、その右翼がわざわざ右翼の保守すべき天皇を貶しめる事を書いたのは奇怪だ。妄想に取り憑かれた人間のする事は理解し難い。

附記

葦津珍彦は、以下のやうに述べてゐる。

英国の外交官が維新後(明治2年)、明治天皇に謁見したときのことをアーネスト・サトーは『一外交官の見た明治維新』のなかに書いてゐる。この時に、新帝は、薄暗い御所にをられたが、白く化粧されてゐたのが印象的だったと記録してゐる。これはいまだ千年の優雅な王朝風景最後の記録かもしれない(やがて白化粧の新帝が大元帥服の皇帝になる)。

この王朝の気風は国内の人心を精神的に和合させるのには、十分な文明的権威があったが、維新を志とした日本人にとっては、優雅にすぎて、文弱と思はれた。日本人が維新を断行したのは、ナショナルな心理を統合して、しかも列強の侵略に対抗し、独立を確保したいがためなのである。それには精神的統合者たる天皇は、奈良平安いらいの優雅な穏かさだけでは、その任務をたっせられない。千年の旧習を一洗して、毅然たる大元帥になってもらはねばならない。これが維新当時の国民の総意だ。

当時の人の思想は、頼山陽の『日本外史』などに影響されたところが大きい。山陽は、外史の巻頭に書いてゐる。けだし我朝の初めて国を建るや政体簡易にして文武一途なる海内をあげて皆兵にして、天子之が元帥たり──

葦津は、アーネスト・サトーの報告に言及し、明治天皇が開化以前とそれより後で大きく雰圍氣を變化させてゐる事を述べてゐる。竹下なら、即座に「これは別人である」と斷定するところだが、葦津は何ら動じるところが無い。別人等と「合理的」に考へる事はせず、寧ろ、時代に即して性格を變化させてゐるところに明治天皇の偉大さを看て取つてゐる。かうした見方を、「天皇信者」の偏つた見方と非難する人もゐるらしいが、その種の「アンチ」的な發想を、右翼の人間が示すとしたら如何なものであらうか。

實際のところ、天皇觀については、既に戰後半世紀以上が經過し――と言ふより、明治以來、既に合理主義の下、日本人は天皇を單純に尊崇する事は出來ないやうになつた。それは事實であり、事實を否定しても意味がない。日本人には天皇を尊崇しない傾向がある。かう云ふ事を言ふと、頭から湯氣を立てて怒り狂ふ國粹主義者もゐるらしいが、言論の自由がある日本で事實をありのまゝに述べても何の惡い事があらう。

そもそも、政治的な日本人は、政治的な實權を持たない天皇を、昔から決して心から尊敬等して來なかつた。天皇は日本における祭祀の領域の長であり、その點で尊敬すべき存在であるのだが、政治的に價値が無ければ尊敬しない、と言ふより、現實的に利益を齎さない人間は尊敬しない、と云ふのが日本人である。

今、右翼諸氏も樣々な立場に分れ、對立してゐるが、天皇を尊崇する立場と、必ずしも天皇を必要としない立場が當然のやうに「同じ右翼」として共鬪してゐる。然るに、いづれの場合にしても、天皇は抽象的に「政治的に利用すべき存在」であるか「政治的に利用する價値のない存在」としてしか認識されてゐない。天皇は、歴史の論爭で等しく政治主義的に處理される對象となつてゐる。實は、天皇を尊敬する筈の立場の國粹主義者にとつても、精々「非國民を選別する爲の蹈み繪」としてのみ天皇は利用されるべき存在であるに過ぎない。

さうした立場に對して、森銑三や葦津珍彦は、政治的な立場から天皇を利用してゐるのではない。明治天皇を當り前に人として認めつゝ、それゆゑにあの重大な事態の連續した時代に生きて日本を支へた事を評價出來るとして、人として偉大であつたと賞賛するのである。かうした態度は、時代の政治的な評價から人物の評價を抽出するのが普通な日本の思想界では、極めて珍しい例だと言へよう。明治時代を評價するから明治天皇を評價する――その種の議論が日本では極めて自然で、さうした評價をしなければそれだけで非科學的であるとして排斥されるからである。「天皇制」と云ふ假設を基に明治天皇や昭和天皇の價値を決定しようとする立場は當然の事、司馬史觀もさうした發想を免れないものと言へよう。

森氏や葦津氏のやうな、人を人としてありのまゝに評價する態度こそ、我々は、より公正な批評の態度として、信頼し、受容れるべきである。それが文學的な物の見方だとしたら、それもまた一種の正しい物の見方であると言ふ事が出來よう。