正しいと云ふことを認めておきたい

鴎外は「空車(むなぐるま)」と云ふ掌篇を書いてゐる。文字通りに受取つてみても、何がなにやら解らぬ文章である。鴎外は、何かが載つてゐる大八車でなく、何も載せてゐない大八車が往來を走る樣子をかう描寫してゐる。

わたくしは此車が空車として行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覺えしむる。この大きい車が大道狹しと行く。これに繋いである馬は骨格が逞しく、榮養が好い。それが車に繋がれたのを忘れたやうに、緩やかに行く。馬の口を取つてゐる男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の靈ででもあるやうに、大股に行く。此男は右顧左眄することをなさない。物に逢つて一歩を緩くすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。傍若無人と云ふ語は此男のために作られたかと疑はれる。

此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。此車の軌道を横るに會へば、電車の車掌と雖も、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。

そして此車は一の空車に過ぎぬのである。

鴎外は續けてかう書いてゐる──私は此空車が何物をか載せていけば好いなどとは、かけても思はないと。このむなぐるまに載つてゐるものは價値と云ふものである。或はこのむなぐるまそのものが權威の象徴なのである。むなぐるまの堂々たる姿の方が、荷物を積んだ大八車よりも餘程見事である。實用的なものばかりを尊重する近代的な概念を鴎外は必ずしも信用しなかつた。

鴎外は「假名遣意見」でかう書いてゐる。私は正則と云ふこと、正しいと云ふことを認めて置きたいのであります。現實と云ふもの、實用と云ふものの存することは否定できないが、それを律する理想、理念、價値、權威もまた、否定できるものではない。鴎外は現實と理想或は價値の二項對立の片方に、安易に與することが出來なかつた。むしろそれらの矛盾を矛盾として認めたのである。


以上の文章は、松原正先生の講演「小林よしのりを斬る」を參考にして書いた。