空車

 むなぐるまは古言である。これを聞けば昔の繪卷にあるやうな物見車が思ひ浮べられる。

 總て古言はその行はれた時と所との色を帶びてゐる。これを其儘に取つて用ゐるときは、誰も其間に異議を挾むことは出來ない。しかしさうばかりしてゐると、其詞の用ゐられる範圍が狹められる。此範圍はアルシヤイスムの領分を限る線に由つて定められる。そして其詞は擬古文の中にしか用ゐられぬことになる。

 これは窮屈である。更に一歩を進めて考へて見ると、此窮屈は一層甚だしくなつて來る。何故であるか。今むなぐるまと云ふ詞を擬古文に用ゐるには異議が無いものとする。ところで擬古文でさへあるなら、文の内容が何であらうと、古言を用ゐて好いかと云ふに、必ずしもさうで無い。文體にふさはしくない内容もある。都の手振だとか北里十二時だとか云ふものは、讀む人が文と事との間に調和を闕いでゐるのを感ぜずにはゐない。

 此調和は讀む人の受用を傷ける。それは時と所との色を帶びてゐる古言が濫用せられたからである。

 しかし此に言ふ所は文と事との不調和である。文自體に於ては猶調和を保つことが努められてゐる。これに反して假に古言を引き離して今體文に用ゐたらどうであらう。極端な例を言へば、これを口語體の文に用ゐたらどうであらう。

 文章を愛好する人は之を見て、必ずや憤慨するであらう。口語體の文は文にあらずと云ふ人は姑く置く。これを文として視ることを容す人でも、古言を其中に用ゐたのを見たら、希世の寶が粗暴な手に由つて毀たれたのを惜んで、作者を陋とせずにはゐぬであらう。

 以上は保守の見解である。わたくしはこれを首肯する。そして不用意に古言を用ゐることを嫌ふ。

 しかしわたくしは保守の見解にのみ安住してゐる窮屈に堪へない。そこで今體文を作つてゐるうちに、ふと古言を用ゐる。口語體の文に於ても亦恬としてこれを用ゐる。著意して敢て用ゐるのである。

 そして自分で自分に分疏する。それはかうである。古言は寶である。しかし什襲してこれを藏して置くのは、寶の持ちぐされである。縱ひ尊重して用ゐずに置くにしても、用ゐざれば死物である。わたくしは寶を掘り出して活かしてこれを用ゐる。わたくしは古言に新なる性命を與へる。古言の帶びてゐる固有の色は、これがために滅びよう。しかしこれは新なる性命に犠牲を供するのである。わたくしはこんな分疏をして、人の誚を顧みない。


 わたくしの意中に言はむと欲する一事があつた。わたくしは紙を展べて漫然空車と題した。題し畢つて何と讀まうかと思つた。音讀すれば耳に聽いて何事とも辨へ難い。然らばからぐるまと訓まうか。これはいかにも懷かしくない詞である。その上輕さうに感ぜられる。痩せた男が躁急に挽いて行きさうに感ぜられる。此感じはわたくしの意中の車と合致し難い。そこでわたくしはむなぐるまと訓むことにした。わたくしは著意して此古言の帶びてゐる時と所との色を奪つて、新なる語としてこれを用ゐるのである。そして彼の懷かしくない、輕さうに感ぜさせるからぐるまの語を忌避するのである。

 空車はわたくしの往々街上に於て見る所のものである。此車には定めて名があらう。しかしわたくしは不憫にしてこれを知らない。わたくしの説明に由つて、指す所の何の車たるかを解した人が、若し其名を知つてゐたなら、幸に誨へて貰ひたい。

 わたくしの意中の車は大いなる荷車である。其構造は極めて原始的で、大八車と云ふものに似てゐる。只大きさがこれに數倍してゐる。大八車は人が挽くのに此車は馬が挽く。

 此車だつていつも空虚でないことは、言を須たない。わたくしは白山の通で、此車が洋紙をきん(禾扁に旁が國構への中に禾)載して王子から來るのに逢ふことがある。しかしさう云ふ時には此車はわたくしの目にとまらない。

 わたくしは此車が空車として行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。車は既に大きい。そしてそれが空虚であるが故に、人をして一層その大きさを覺えしむる。この大きい車が大道狹しと行く。これに繋いである馬は骨格が逞しく、榮養が好い。それが車に繋がれたのを忘れたやうに、緩やかに行く。馬の口を取つてゐる男は背の直い大男である。それが肥えた馬、大きい車の靈ででもあるやうに、大股に行く。此男は右顧左眄することをなさない。物に逢つて一歩を緩くすることもなさず、一歩を急にすることをもなさない。傍若無人と云ふ語は此男のために作られたかと疑はれる。

 此車に逢へば、徒歩の人も避ける。騎馬の人も避ける。貴人の馬車も避ける。富豪の自動車も避ける。隊伍をなした士卒も避ける。送葬の行列も避ける。此車の軌道を横るに會へば、電車の車掌と雖も、車を駐めて、忍んでその過ぐるを待たざることを得ない。

 そして此車は一の空車に過ぎぬのである。

 わたくしは此空車の行くに逢ふ毎に、目迎へてこれを送ることを禁じ得ない。わたくしは此空車が何物をか載せて行けば好いなどとは、かけても思はない。わたくしがこの空車と或物を載せた車とを比較して、優劣を論ぜようなどと思はぬ事もまた言を須たない。縱ひその或物がいかに貴き物であるにもせよ。